2013年06月18日(火)

一年ほどサイトを放り出していた。そのあいだにいろいろ有りはしたが、今のところ別段の経過を書く気にはならない。紆余曲折がありすったもんだがあり結局地元へ帰ってきたわけだ。一昨日の日曜から胃の調子がたいそう悪く休息を拵えていたのだが、ベッドに籠もって本を読むのも飽きたことだし。

試しにどれ、とこのサイトを開くと、一年と二日前が最終の更新だった。気が向いたからなどと綴っている。一年経っても変わらないなと思うし、その割に忙殺されていたじゃないかとも感じる。そういうところはだいたいTwitterの所為なのだ。へえ。

胃の調子が悪いと書いたが、飲んでいる薬が悪いのだ。チャンピックスという禁煙治療だか補助薬がもろもろの症状で僕を責め立てるのである。確か数年前のこの雑記で同じことを書いた記憶がある。遂にたばこを止められなかったのだ。その事は情けないとは思わない。たばこは美味いから。だが家族の理解が得られぬ。……まあいい、愚痴っても仕方がない。

そういうわけで僕は四月一日からたばこを控え、薬を飲んでいる。これが非常に不愉快な副作用をもたらし、特に平生の理不尽な苛立ちと胃のむかつきは酷い。下手な飲食は必ずや嘔吐するから警戒しているのだが、今朝も昨晩の夕餉を戻した。こういう仕打ちが全て家のものの要請に起因していることを反芻するとまた腹が立ってくる。弟など、僕が学生時代に下宿先の壁をヤニまみれにしたのを笑っておいて彼自身同じことをやらかした上に禁煙薬の副作用に耐え抜いたと先輩風を吹かしている。書いていて苛ついてきた。どうせ三ヶ月、今月末でチャンピックスともおさらばだから堪えるか。大人げないこの状態からさっさと離脱したい。

ポケデジの新しい機種が出たので予約注文した。COSMIC SQ70という。SQ30にはなかったWANDERという撮影モードが付与しているそう。いろいろ改良されているらしいが発送は六月下旬頃とのことでとにかく待ち遠しい。次回の更新はきっとSQ70が届いてから幾日も先のことだろう。どうでもいいことだが、僕のポラロイドカメラはSX-70 1stという名称である。Sx70のナンバーが被ることは少し残念な心持ちがする。ま、気のせいだ。

どうでもいいことと言えば、今月の上旬、庭に朝顔の種を蒔いた。蒔いたのは普通の、曜白、桔梗咲きなど、袋で五つ六つ分。道沿いのフェンスの下にばらっと放り投げた。朝顔は逞しいからそんな様子でも幾日かで芽を出した。あとは知らんである。二年前の観察日記は九十四日間、毎朝付け続けたが今年はそうそう腰が上がらず、時々早朝に見回る程度だ。夕顔も蒔いた。こちらはプランターの中だ。未だ覗いていないが、夕顔は起きるのが遅いからぼちぼち待つつもりでいる。

2012年6月16日(土)

久々に更新。といっても、Twitterへ投稿する際利用しているTwipicのガジェットを知ったので、試しに貼り付けてみたくなっただけだ。学校の課題やお仕事探しに奔走していると、週末は何もやる気がなくなってしまう。ガジェットのサムネイルはページ左上に表示される、はず。サイトにjavascriptを埋め込むのは僕の信条から外れているのだが、たまにはいいだろう。

TwitterやGoogle+なんかで日々の出来事を細切れに投稿しているとここで更新するネタがなくなってしまう。僕は慣れない生活の疲れに少し倦んでしまっているらしく、そのストレスが体調不良と重なって学校をだいぶん休んでしまった。休めばそれだけ機会の損失なのだから、なのだが、ひきこもりが一足飛びに社会復帰なんて無茶な話ではある。なるべく都会の生活を謳歌しようとあちこち出掛けたりもするのだけれど、何せ僕の根っこはいなかものである。栃木の片田舎から全都道府県で緑が最も少ないところへ越してきて、代わりに人込みと喧噪のど真ん中を往来する暮らし。以前に滋賀の学生街で暮らしていたときより、滅入ってしまう。引っ切り無しにジェット機の轟音が届くし、移動するだけでも金の要る街。便利ではあるけれど何かと入り用で動きを止めないところ。

あと一ヶ月もすれば学校は夏期休暇だ。地元へ少し、帰りたい。帰って何も考えずにのんびりぼんやりその日を過ごしたい。

弱音を吐いたって仕方がないから各SNSでは脳天気な投稿ばかりしている。学校や職探しの場でもそれは同じ事なのだけれど。五年間の空白は他の同い年より未熟で間抜けなおっさんをつくってしまった。都会人は元々タフでしっかりしているというのもあるかも知れないが、郷に入っては何とやらだ。やれやれ。

思うところはいくつかあるのだが暗い話ばかりだし、自分をしっかり保たないとこの先やっていけない。昨日はTUTAYAで寛げそうなカフェの音楽CDを四枚ばかり借りてきた。今もそれらを聴いている。今日は土曜日。ボケッとするか。

2012年4月21日(土)

「前髪焦げた」を長らく放置していた。書こうと思えばいくらでも書く機会はあったが、TwitterやWassr、Google+にfacebookにRe:fee、挙げ句は2chの壁に巣を拵えていたのでちょいとした長文を書く気力が失せていたのだった。端書きを少し。

早起きに暫しさようなら
美術系の専門学校へ通い始めた。夜間部のグラフィックデザイン学科。日中もいろいろ用事があり、家に帰り着くのは二十三時頃だ。帰るなりスコッチウィスキーにトマトジュースとコンソメ少しをカクテルしてちびちび飲み、程よく弛緩してきたところでおやすみなさいなのである。早朝起床――午前三時頃――は土日を除いて厳しくなった。JFNラジオの音楽自由区。さんとNHK総合の世界遺産100は週末には放送していない。Windows Media Centerで地デジは録画できるけれど、ラジオは難しい。ときどき無茶して四時からの音楽自由区。を聴こうかなあ、なんて、日々昼間の雑事や学校の課題に追われているのに、十分な睡眠時間がとれないと不機嫌になる僕には無理なのかも知れない。生活リズムが変わったことに一所懸命適応しようとしている真っ最中なので、もう少し落ち着いてきたら早起きも時々は出来るんじゃないだろうか。出来るだろうか。何れにせよこの新しい生活を上手くやり過ごそう。
早速渾名をもらう
学校のヤニ場で寛いでいたら同じクラスの方ふたりに「濃い人」なる称号を頂いた。授業が終わり別のヤニ場でぷかぷかしていたら、後からやって来た同じふたりに「あ、濃い人だーこんばんは」と再び声を掛けられた。確かに濃ゆいのは自覚しているが、どう受け止めたなら良いのやら。来月二十六になる僕は君らの若さが羨ましい、なんて書くとどこかから顰蹙を買いそうなので止めておく。「人の言葉は善意に取れ。 そのほうが5倍も賢い」――シェークスピア。
面白良さげな課外ゼミ
課外ゼミを二つ登録した。登録料計六千円。一つは絵本(絵本の制作・紹介研究)で、前々から絵本や豆本を作ることが出来たらいいなあ、と思っていたので渡りに船だ。もう一つは写真入門(写真表現の研究批評・簡易製本の実習)。折角アズミノ工業さんに直して頂いたニコイチポラSX-70があるし、トイカメラが二つとデジ一もある。素人の手探りで腕を磨くよりかはきちんと体系立ったお勉強を受けたくて、これは是非、と申し込んだ。定員枠に収まっていれば、来週の金曜日と再来週の火曜日にゼミが始まるはず。大袈裟に言うと楽しみで仕方がない。
案内標識が親切な梅田地下街
去年の十月末に引っ越ししてから暫くのあいだ、大阪梅田の地下街は迷いやすいからひとりで行くな、と良く言われた。地図を見ると新宿駅並みにダンジョン化している。だが、学校へは地下街かその地上を通らねばならぬのである。あまり急ぐ必要のない帰り道に地下をぶらぶら歩き回ると、其所彼所に「御堂筋線こっち」「大阪駅あっち」と書いてある。ふらふら歩いていても結構、目的地には辿り着けるのだ。僕はずぼらで適当で、行き当たりばったりの出たとこ勝負に強いらしい。
ダージリン’12FirstFlashが今美味しい
リシーハットの青いEX-1リーフルで2012 1st Flush RISHEEHAT China Flowery EX-1 SFTPGFOP1を買って、一週間ほど開封を我慢していた。土曜日は何もしないでのんべんだらりと過ごすことに決めている。なので今日(もうすぐ日付が変わる頃合いだけれど)、朝三時に起床してわくわくしながらお茶を淹れ、前日に買っておいたデニッシュロールと一緒に至福のひとときを過ごしたのだ。一年ほど前に書いた初めての紅茶レビューでダージリンの春摘みについて「青い」と表現したが、やはり青いという表現が一番ぴったり来る。花の香りと仄かな甘み、淡い水色。美味しい。広がった茶葉も若々しく美しい。季節毎にその時期のお茶を飲むというのは、しやわせ。おまけとして’12 1st SELIMHILL EX-1が入っていたので、あとで飲み比べするつもり。気に入ったらまた買うのだ。ついでに書くと、ルピシアから「ルピシア グラン・マルシェ2012」とかいう年間パスポートが届いてた。一枚二名まで。どの会場に何度でも好きな時間に予約無しで入場可、との事なので、使ったら誰かに差し上ごにょごにょ。僕はとってもよいリピーターなのだろうと思うと、こういうパスが届くというのは嬉し悲しで何とも言えない気持ちが、少し。
Windows Millenniumは出来る子だった
17インチCRTが眩しい TEOの夜空にオーロラが
ある方からWindowsMeを譲って頂いた。既に増設済みのNEC VALUESTAR VT866J/67D、Pentium IIIのメモリ512MBでやたらさくさくと動く。これを譲って頂いたのには訳があって、富士通のTEO -The Other Earth-をVirtual PCで動かしていたのだが、音声コンタクトに必要なTEOアンテナを繋ぐ為のMIDI/ゲームポート付きサウンドカード(SoundBLASTER PCI DIGITAL128 CREATIVE CT5880)を挿すWin9x機が欲しいなと思っていて、たまたま機会があってその方にお願いしたところ本当にパソコンが届いた、という次第。僕のメインマシンは64Bit機なので16Bitアプリケーションは動かない。TEO -The Other Earth-はWin9xでしか動かないし、PEGASUS for Windowsの大半などは16Bitなので32Bit機で動かせるのは大変に助かる。お礼にお茶とお茶請けや桜漬けを送り返したところどうやら喜んで頂けたようで、ほっとした。愛機として長らく使ってきたものを、それも存分に軽く安定して動くようカスタマイズされた優秀なMeさんを他人へ譲り渡すのはさみしい気持ちもあっただろうに。大切に愛でつつTEOとのコンタクトを続けたいと思う今日この頃。
街中の桜も趣がある
駅のホームの桜今月の一日頃だったか、同居人と大阪城へ夜桜見物に出掛けた。ホームの桜をデジ一で撮っていたところ電車がやってきて、上手い具合に写り込んでくれてしまったのがこの写真である。同居人に鉄ちゃんみたいと言われた。大阪城公園の何とか御園だったかは入場できる時間帯に制限が設けられていたので、程よくごろごろ桜湯を飲みながら夜桜を楽しんできたのだった。帰り際、道ばたのいくつかのゴミ捨て場がとんでもなく堆い山となっていて衝撃を受けた。今日明日辺り、栃木の大田原城址(龍城公園)でも桜が満開だろう。あそこは夜通し照明が輝いている上そこそこの人の出入りなので、ぼんやり夜と夜明けの桜を楽しむにはもってこいなのだがなあ……。如何せん、去年の震災でお城山はだいぶん崩れたりひび割れたところが目立った為、しばらく立ち入り禁止になっていた。僕が大阪に越してくる数ヶ月前、2011年8月頃もそのままだったはずで、今年はあちらで観桜出来るようになっているのだろうか。
緑が恋しいいなかもの
田舎の土手の野蒜は取り放題であるシロキの御浸しとタラの天ぷら、あと春の野蒜が食べたい。実家の庭に無駄に生えているあれやこれやを今、無性に堪能したい。あー、これは某ほうれん草食べたいの歌とかとは何ら関係のない、単なるホームシック(面倒くさいこと……)。全国で緑の一番少ない場所に越してきて、目の保養になるものが星の乏しい空の月とスチロール箱の盆栽、あと夜中の点滅信号くらいなので、少し愚痴めいた事を書きたくなったという訳で。僕がWassrとTwitterにクロスポストしてる朝四時のお天気メモに季語をやたら挟む傾向が最近、とみに見られるのはちょっぴり恋しいから。やはり僕はいなかものが似合ってる気がしてきた。まあ、慣れるさ。いつか栃木に帰って骨をうずめる事は人生計画に初めから書き込まれてるケド。この時期のあっちの野蒜は今が旬か。酢味噌で和えてもそのまま御浸しにしても美味いが、一番なのは味噌を一寸付けて丸かじりだ。春先の野蒜は柔らかく、程よく辛みがあって、いくらでも土手で採れる。こういうのをちょいと街中へ持っていくとそこそこの値段で売れるから不思議だ。盆休みまで地元へは帰れそうにはないケド、あまり感傷的になっても仕方ないのでこの辺りでしばし打ち止め。
移ろいゆく全ての夜明けへ
ちょいと前に音楽自由区。さんで流れていたDream Academyの「Life in a Northern Town」が気に入って、AmazonでCDを探したところ入荷未定だった。ふと思いついて英国Amazonにて検索。あった。送料込み込みで日本円にして千円ちょい。来週の月曜日頃到着とのこと。どうせなら休日中に来て欲しかったが仕方がない。速達航空便だと送料が跳ね上がる。聞けばこの曲、だいぶん有名なものなのだとか。今まで知らなかったのが残念だがじき届くので問題なしだ。音楽はいいね、煙草と音楽とお茶だけで余暇を生きていける気がする。

2012年1月1日(日)

ちびコウと白狐ストラップと甘酒と伏見稲荷大社で年越しと初詣をした。ちょうど一年前は玉藻稲荷神社だったか。伏見稲荷は夥しい人の波でごった返していた。貯めてきた五円玉たちをあちこちにお賽銭して、二礼二拍一礼。同居人に学業成就のお守りを買って貰って、甘酒を奢って貰った。僕は白狐ストラップ(大)を買う。御守護という札が着いている。参道の売店にはちびコウと程よく似たぬいぐるみが売っていたのだが、手持ちが足りなかったので正月気分が抜け切らぬうちまた、出掛けるつもりだ。

去年の九月にぽつりと更新したきり「前髪焦げた」を放置してしまっていた。暇はそれなりにあったりもしたのだが、あれから十月の末に大阪市へ引っ越して相方(他の呼び方を知らない)と同棲を始め、就職活動やら何やら、色々とこなすことに掛かりっきりだった。今でもまだ駅の乗り換えで迷ったりとなにやら不慣れな土地で右往左往している。ま、この生活も少しずつ落ち着いてきた。春からはまたわたわたと忙しくなるだろう。頑張ろう。元旦の夜明け

去年のクリスマスに、一昨年から二度目の「高速インターネット衛星きずなからのクリスマスメール」を知り合いらへ送って貰った。そうして幾人かから返事が来た。久し振りのメール、電話の生の声。近いうち折々に遊ぼうと皆から言葉を貰った。以前近畿に住んでいたので知り合いらがまた近くなったことも嬉しい。

Google+とfacebookもつい最近、と言ってもGoogle+はクローズドテストの時からなのだが、始めた。TwitterとWassrは相変わらず暇を見つけては書き込んでいる。人とのつながりが増えることはとても楽しい。ネットだけでなく、先のクリスマスメールの返事のように現実での付き合いをこれからもっと増やしていきたい。伏見稲荷大社でおみくじをしたところ凶のち吉だった。『かくてのみよに有明の月ならば雲かくしてよあまくだる神』。待ち人来たる、とのこと。実りある良い一年にしたい。あなたにも。

2011年9月4日(日)

季節と共に移ろうのが判る。唖の鴎は浜辺にいるか。

やはりどうしてもいっときの感情では動けなくなってしまう。以前の僕だったなら、と思い返していや、と首を振る。これまでにも色々な生き方や出会いの節目はあったけれど、それらはもう過ぎ去ってしまった事で、取り返しなんか一向につかなくて。

迷いのない未来かと聞かれたなら、揺るぎない自信かと問われたなら、黙り込んでしまうに違いない。

言葉に詰まってしまう。

それでも行動に移すのは、具体的に言うなら大阪へ引っ越してそこで新しい同棲生活を始めるのは、ほんの小さな好奇心からだ。好奇心は無償の動機付けを与えてくれるから肌身離さず忘れない事にしている。ま、それでいいんだろう。きっと。

大切な夏の時期の更新をさぼってしまったのは致し方ないが、それも色々な出来事が重なったから。少し細かく言えば温泉旅行や大阪での下宿先の下見、茨城への旅行など。あまり立て続けに強行軍をやったので仕舞いには疲労から夏風邪を引き、しばらくひきこもった。十月にはもう引っ越している事だろう。その間にもう一度ほどは更新が出来ると良いのだが。

2011年6月27日(月)

月曜日の休息。

午前中、銀行へお金の振り込みに行ってきた。列に並んでいてぼんやりしていたため、前にいたおばさんに不審がられた。つまらない事だ。

久々に雑記を書こうとすると色々あるようで何にもない。しいて言えば、ラジオ番組へのリクエストが明日朝にオンエアされることと、近々普通車の運転免許を速成で取る予定が入ったこと、くらいだ。TwitterとWassrで毎日少しずつ呟いていると長いものを書く気力が無くなってしまう。

ああ、そういえばジョギングと筋トレを毎朝行うようにはなった。まだ日は浅いがそれでも割かし持久力は付いた感じがする。学生時代以来久々に美容健康に気を使い始めて、自分のお肌と体重のダメダメさにがっかり。夏の間に一回りしっかと痩せて綺麗になれたら、秋は楽しいことになりそうだ。

そうだった。教習所通いと同じくして就職活動も始めるつもり。僕の身体はもうずいぶんと健康で人並みになったし、脚の痺れは気にするほどでもなくなった。まともに仕事をして食い扶持を稼ぎ、自活する。とても健康そうだ。頑張らねば。ん、かかりつけのお医者さんから「最近は頑張っているね、でも気負いすぎてはいけないよ」と、励まされると共に釘を刺された。けど、頑張らなきゃ這い上がれない。ここ三ヶ月ほど、朝三時には既に起きてなにやかやすることが日課となっている。少しずつ自分というものが分かってきた。今は新しい習慣を作ることが出来る周期だ。やれることをやる、後ろを振り向かずにすむにはそれをこなすしかない。今はほんの一握りの人々にしか評価されなくても、こつこつと続けていればきっと結果はついてくる。僕は僕なりに努力してる、なんて事、出来るなら誰にもひけらかしたくない。

最近は夜明けが早いので、早起きしていると朝の独りだけな時間をのんびり楽しむことが出来る。それで色々工夫をする。お茶をうまく淹れようとしたり朝顔やゴーヤの観察日記など付けたり。でも殆どはのんびり何も考えずにいる。以前は考え込むことが多かった。この頃は行動が先に出る事のほうが多い。好ましい傾向だ。

「豚の死なない日」でも読みたい気分だが、あれは僕の中で過去のものなのでいつか、もっと心に余裕の出来た時に。蝉が鳴くのは梅雨明け頃だろうか。蛍はもうじき出てくる。この辺りでは朝四時きっかりに蜩が鳴く、ということをちょうど一年ほど前に書いた記憶がある。んー……確かめたところ、サイト開設から今日で一年なんだな。サーバーレンタル代の支払い更新がもうすぐ来ると言うことか。

この一年はもそもそしていた。今年の初めに「穏やかな年になりそう」などと書いておいて色々あったが、それは致し方ない。ともあれこの夏は様々なことが起きそうだ、なんてことは毎年思っているのだけれど。本当に今夏は変われそうな気がする。

2011年5月27日(金)

緑先週だったか少し前、大田原市街地の社寺巡りをしていて、ちょっと妙な目にあった。

一つは曰くのある神社へちょっかいを出した直後の帰りに、原付の鍵をシート下へ閉じ込めてしまったことに気がつき難儀したこと。もう一つは稲荷神社でおにぎりを食べていてきつね雨に降られたこと。ま、こじつけのような気もするが、後から考えると面白かったので、からかわれたんだろうと思っておこう。

社寺巡りなんて書いたが実は地名探りである。紫塚という地名にまつわる悲しい民話を聞いたことがきっかけ。えーと……

紫塚

昔々、大田原のまちを治める殿様がいたころのお話。お城に紫という名の美しい女中がいた。紫には婚約を交わした浪人がいたが、殿様は紫に惚れ、側室になれと迫る。紫は殿様の使いが来る度にそれを拒絶した。とうとう嫉妬に駆られた殿様は婚約者の浪人を打ち首にしてしまう。それでも紫は気持ちを変えなかったので、今度は彼女までも城の近くへ生き埋めにしてしまった。いつしか誰ともなしに、その辺りは「紫塚」と呼ばれるようになったという。

明治時代に入って。土地のものがその一帯を拓こうとすると、その度に青大将が現れたそう。そしてそれが現れると必ず近くの者が病に苦しめられた。人々は青大将を、紫の婚約者である浪人が彼女を想って生まれ変わり、塚のあった土地を守っているものと考えた。そこで小さな神社を建て、祀ったということだ。

神社の名前は出さないが、地図サービスで調べると出てくるので興味のある方はどうぞ。質素というか簡素というか、とにかくちっちゃな神社だった。

きつね雨きつね雨に降られたのは住宅地の奥、三吉稲荷という稲荷の境内でだった。詳しいことは分からなかったが、この稲荷神社は近所のとある会社の中の人が、商売繁盛とそのついでにしだれ桜の大木(三吉滝桜)をまつって、おまけに隣接する道祖神も巻き込む形で建てたものらしい。昭和五十二年三月吉日建之とのことで結構立派なものだった。

市街の社寺を回っていて気がついたこと。どれもこれも水場の隣にある。具体的に言うと水路とか川だ。風水か何かなのだろうか。この辺は城下町、宿場町だったからなあ。別段水場が近くにあっても驚きはしないのだが、少し気になる。

昨日の話。かねてから埼玉県春日部市のアズミノ工業さんへ修理に出していたポラロイドカメラSX-70初期モデルがニコイチになって戻ってきた。アズミノ工業さんでニコイチにして戴いたポラロイドカメラSX-70分かり易く言うと、海水に浸けて壊したもの、地震の時壊れてしまったもの二つのポラが手元にあって、日ポラのカスタマセンターへ修理依頼を出したところ、アズミノ工業さんへ送って欲しいと言われた次第。「二つのポラの壊れてないところをそれぞれくっつけて一つに直して下さい」……とまあ、何とも無茶な相談だったが、全くその通りになって帰ってきたのだから、アズミノ工業さんの錬金術には感心するばかり。以前にも一度あちらへポラロイドカメラの修理依頼をしたことがあり、とても好感の持てる対応をして戴いた。

画像に写っている二つのポラのうち、左は完動品、袋に入っているカメラは外のガワだけ。「残しますか?」と訊かれはいとお願いしたのだ。色々と思いを察して戴いた、良い修理だった。一万六千円とお金は掛かったが。ついでだし、SX-70 FOREVER辺りでカラーフィルムパックを買ってみようかな。

2011年5月9日(月)

五月三日から六日まで、三泊四日の小旅行に出掛けていた。栃木の北の端っこから犬吠埼へ、そして茨城沿岸を北上するために、買い物かご付きの黄色い原付で出発。現地からの実況を少しばかりついったやわっさーへ投稿しているので、気になる奇特な方はサイトのinformationのリンクからどうぞ。

犬吠埼灯台を望む君ヶ浜初日。暁の出立。上着は三枚着ればいいだろうと読んだが、これは初っぱなから最後まで裏目に出続けた。夜明けはとにかく一番冷え込む時間帯だ。昼ごろ茨城の海へ出るまで、コンビニを見つける度に暖かい缶コーヒーと煙草で小休止を入れた。那珂川沿いの国道294号線を南下。途中で三毛の美猫と出会う。にゃ、と鳴きながらすり寄ってきて、写真を撮ろうとしている内によそへ行ってしまった。その先で飼い主らしい女性が「あきら、おいで」と言って連れ沿って行ったから、あきらさんは賢いんだなあと思った。そして水戸市街で迷うこと暫し、何とか海沿いの51号線へと出る。そこから四時間程掛けて、灯台の見える犬吠埼の君ヶ浜しおさい公園へと到着。小雨の降る強く寒い北風の夕方だった。早速灯台と原付の写真をデジ一で撮っていると、大学生らしき数人が寄ってきてコンデジを見せ、集合写真を撮って欲しいという。ふと見やると海を背にした欄干の前で十名程の僕よりも若い一行がわいわいやっていた。サークルかなんかだろうか、思い出の写真が欲しいのかなあ、などと考えながら快く引き受けた。じゃあ撮ります、いち足すいちはー? なんて僕も調子の良いものだ。何枚か撮ってカメラを返すと幾人もからお礼を言われた。こんなことは悪くない。そうして一行が去った後で、防風の植え込みの脇に、海側へ面するように手早くテントを組む。テントの中で濡れたジャケットを乾かし暖をとるため、Zippoの携帯用ガスコンロでお湯を沸かし、コンビニ弁当と熱い豚汁を頂いた。磯のとどろきや風のうなり、屋根を叩く雨音、色んな音に包まれて煙草を吸いつつのんびり。そのうち夏用のシュラフにくるまり瞬く間に眠りへと落ちた。

アールグレイ・クラシックで迎えるテントの朝二日目は未明から気持ちの良い晴れ。ガスコンロで湯を作り、ルピシアのボール型茶こしに詰めた茶葉を湯の小鍋で淹れる。海が燦々と輝き潮風も心地よい。アールグレイを飲みながら太陽の下で改めて眺めると、犬吠埼灯台は白亜の巨大な塔だった。ひとまずコンビニ弁当を平らげてから、君ヶ浜の磯をぶらぶらと歩いてみる。がらくた蒐集が趣味な僕の御眼鏡にかなうものはあまり見当たらなかった。小石を幾つか拾ってはポケットへ転がしてまたぶらぶら。気が済むまでそうやって、その気になってきたところでテントと荷物を畳み、崖の高台の上の灯台へ向かった。

電気どろぼう灯台には二つ駐車場があったが、僕はどうやら遠回りをするらしい近道と書かれた入り口へ来てしまったらしい。お食事処や宴会所、土産物屋へ続いている廊下の脇にソファと灰皿、電気のコンセントが見つかったので、しばらくそこで一服しつつスマホの充電というか盗電をしてしまった。廊下の往来を観察して、コンセントに刺さっている変なものに気付く人がいないようなのを確認すると、僕はふらふらと土産物屋の方へ歩いて行った。途中でお食事処のおかみさんとすれ違ったので開いている時間を訪ねたのち、お土産の品々を物色。どこの土産屋でも良くある品ばかりだが、それがかえって旅情のようなものを満たしてくれる。漁船用の壊れた集魚灯が1500円とか2500円で売られていて、これは少し欲しいなと思った。が、似たようなものは二、三年前に大洗の海辺で拾い自室の机に飾ってある。結局、水色ラメ入りイルカの蛍光キーホルダーを買った。これは小学生かそこらの頃同じものをどこかで買った記憶があり、懐かしくて手を出してしまった。そのうちふらりと灯台のある方へ向かった。

鯉のぼりの犬吠埼灯台鯉のぼりの掲げられた犬吠埼灯台──道案内の犬吠埼にはInubou”sa”kiとローマ字が振ってあった──の入り口で東日本大震災宛ての募金チケットを買って、まずは資料展示室へと入る。リチャード・ヘンリー・ブラントンという人のブロンズ像があった。明治政府の御雇外国人だったということだ。日本の近代航路標識事業の創設を主として、鉄道・電信・都市計画など多岐にわたる分野で業績を残した人であったらしい。僕はパソコンにいっとき灯台画像フォルダというのを作って収集していたから、こういうお雇いさんにはかっこよさとロマンを感じる。長崎鼻のほう 水平線はやっぱり丸いのだ一通り資料を眺め、読み、念を入れてデジ一で壁の説明を丸々取り込み、予備知識も万端と言うことで灯台へ上ることに。犬吠埼灯台の回り階段は九十九段あった。結構息の切れる階段だ。降りる人と上る人とで道を譲り合いつつてっぺんへ。狭い潜り戸をくぐると眼下に煌めく太平洋があった。うむ、素晴らしく何も言うことはない。旅の幾つかの目標のうち、一つがこれで果たされた。感動のままに再び階段を下りる。出口のところで資料展示館というのが目に入ったので、とりあえず入ってみることにする。モザイクタイル写真の灯台の絵と、資料で読んだ灯台のレンズ、フレネルレンズというものの原寸見本らしきものがあった。灯台のレンズはフレネルレンズきらきらと輝いていて綺麗だ。無数のプリズムを組み合わせて作られているためこのように見えるそう。

……犬吠埼灯台の光源はメタルハライドランプが使用されており、第一等のフレネルレンズを通して36km先にまで達します……灯台のレンズは、レンズの焦点距離で表のように等級が決められています。そこで第1等レンズを使用している灯台を第1等灯台と呼びます……現在、1等や2等の大型の灯台レンズが新しく制作されることはなくなり、反射鏡と組み合わせたり、フレネル・レンズを複式にした、小型で高性能の機種になっています……

とのこと。展示館には犬吠埼灯台の様々な写真や船乗りたちのロープの様々な結び方などが展示されていた。

サザエのつぼ焼きひとしきり灯台欲を満足させたところで先のお食事処にて海のものを戴くことにした。表の日の光を良く取り込んだ和風れすとらん「船主」へ入り、奥の席で壁のメニューとお品書きを交互に眺める。サザエのつぼ焼きなど美味しそうではないか。迷った末、刺身定食と一緒に注文をお願いした。前者はすぐに運ばれてきた。生きたサザエを火あぶりなのだ。次第に香ばしい潮と野生の香りが漂ってきた。貝の蓋がきゅっと引っ込んでぐつぐつと煮える。見計らって火箸とフォークでこじ開けて下さいね、と言われたが、慣れない手つきで蓋に挑戦しても中々隙間にフォークの先っぽが刺さらない。ちょうど刺身定食を持ってきたおかみさんにお願いすると、するっとワタまで引き抜いてくれた。お礼を言ってサザエに食らいつく。うむ、苦くて旨くてこりこりしていて。ビールなど欲しいと言ってみたくなったがこの後また原付で走らねばならないのでやめておいた。刺身定食にはわさびがたっぷり乗っている。ああ、ここで旨いもん食べながら酔っ払ってみたい、心底そう思った。大根のツマまで一筋も逃さず食し、腹がくちくなったらお会計。食後の一服と言うことで店を出、廊下の出口そばのソファに腰を下ろして電気どろぼうが済むまでボケッとしていた。

貝殻の海さて、来た道を戻らねばならない。次の日に大洗と那珂湊を巡るためだ。午後一時半頃に犬吠埼を発ち、国道124号と51号線を北上する。距離およそ100km、四時頃に大洗海浜公園へ着いた。原付から荷物を下ろして駐車場へ近い砂浜にテントを張る。夕闇が迫っていたが、陽が完全に落ちるまで、まだしばらく間があった。ビーチコーミングなんて洒落たことでもと、めぼしいものを拾いに海岸へ歩いて行くと、浜の高いところにハマグリやらシジミらしい貝殻が呆れる程転がっていた。多分3.11の津波の時に打ち上げられてしまったのだろう。辺りは別段臭わなかった。波打ち際の海のお便り波打ち際を歩いていると、だんだん潮が満ちてきているらしく、ちょうどそこに今洗われようとしているハマグリの貝殻がぽつんとあった。思わず持っていたデジ一で連続撮影。こういうさまは『前髪焦げた』でのんべんだらりと書いているお話の挿絵にちょうど良いんじゃないかな、なんて考えたり。ヒトデの干涸らびたのや白い貝殻を幾つか拾ってテントへ戻った。コンビニ弁当と豚汁をがつがつと食べ、煙草を好きなだけ吸い、地吹雪のように飛んで打ち付けられてくる砂の音を聞きながら、気がつけばぐっすり眠っているのだった。

三日目。暁よりも早く起床。今日という未明を楽しもうと、リュックの中にとっておいたスコーンやクッキー、チョコレートなどを取り出し、オランジュショコラの紅茶を淹れてのんびり夜明けを待つ。深夜二時かそこら頃、少し離れた駐車場で、何ともいえず珍妙な音楽を馬鹿でかい重低音でカーステレオから流している阿呆がいた。三時半頃に若人たちの駄弁り声。六時か七時頃にはサーファーらしき人が数人と連れ添いらしきいい歳したおねーちゃんたちがテントの前を往復していった。要するにここはそういう場所なのだ。が、テントの中に引きこもってガスコンロに鍋をくべ、表の朝の空気を取り込みながらのほほんとしていると、何も気にならないのが不思議な感じではある。消えた足跡時間を掛けて朝食を味わい、陽もやや昇ってきたところで腹ごなしに浜辺を散歩。波打ち際に誰かの足跡を見つけたので何となく撮ってみる。後で見直して気がついたが、この足跡、途中で消えているのだ。波にかき消されたんだろうか。何だか変なもの。

朝七時半頃テントを畳むことに。その調子でいけばアクアワールド大洗水族館へ朝一番に入ることが出来るはずだと算段したためだ。しかし、警備員の方々に二輪車駐車場を案内して貰いつつ入り口へ赴くと、既に家族連れたちが三組ばかり並んでいて、おまけに開館は八時半からだった。好きでやっていることだが、僕はイベント施設で並ぶのは相当苦手な方である。しかも後からどんどん家族連れや恋人組が後ろに並ぶ。前の方では一組の家族連れが揃って床というか地べたにあぐらを掻いて座っていた。旅先でなくともそういう光景を目にしてしまうのは情けないものだ。だがやがて時はいたり、入場ゲートが開いたのでその場を離れることが出来、ほっとした。

イルカのジャンプ九時から「イルカ・アシカ オーシャンライブ」という演目がなされるというビラを貰ったので会場へ。前列の方は水しぶきで濡れますので……などのアナウンスの後にレジャーシートの販売タイムが挟まれていた。上手いものだと思ったが邪念は捨てることに決めているのだ。はじめにアシカのショウ。時折ズルもしたがいろいろな芸を見せてくれた。調教師との掛け合いが愛嬌たっぷりだ。一人と一匹で頑張るアシカの名前を聞いたのに忘れてしまった。確か女の子だったように思う。続いてオキゴンドウとイルカ二頭のショウ。大ジャンプをしたり水中逆立ちをしたり、客席のそばでお腹を見せたりと、イルカ好きにとっては辛抱たまらないひととき。いやあ実にめでたかった。約三十分の演目で、一日七回プログラムがあると言うことなのだが、連休末日だったためか一度目の会場は先着順であっという間に満杯だったなあ。

ゆらゆら漂うマンボウその後、水族館内を順路に従って巡る。見たもの、撮ったものは沢山あるが、とりあえず一番大きそうな魚、マンボウを。縦横共に人の背丈よりもでかかったかも知れない。そういえばエトピリカなんて鳥の名前を見て「ん?」と思ったのだけれど、家に帰ってきてからそれが「情熱大陸」のエンディングテーマ曲のタイトルだったと気がついた。Wikipediaには『エトピリカ:ウミスズメ科の鳥。エトピリカとはアイヌ語でくちばしの美しい鳥の意味。絶滅危惧種(環境庁)』とある。確かにくちばしの大きな鳥ではあった。水槽の中のラッコやアザラシがこちらを見つめているようなのを面白く思ったりもした。彼等は水の中では俊敏だ。ゴマフアザラシだったか、見ていると器用に壁でターンして泳いでいたっけ。

満足いくまで館内を見学し、入退出ゲートを再びくぐり、足早に土産物ショップへ入った。実を言うとこれが水族館での僕のメインイベントなのである。お目当ては動物のぬいぐるみ。この大洗水族館では過去二度、イルカのでっかいぬいぐるみをお連れしている。予算の都合が付く限り気に入ったものを連れて帰りたいと願って旅程に組み込んだのだ。原付に乗せられないような時は宅配便で送って貰おうかなとさえ考えていた。が。結局散々悩んだ末に、皇帝ペンギンの仔供のハンドパペットをひとつ購入した。肌触りはふかふかすべすべですんごく愛らしい。うちには僕と同い年のパペットウサギさんがいるから、これで対になるわけだ。ひゃっほう。

ナマコとホヤが好奇心を刺激するぬいぐる欲も満たしたところでそろそろ那珂湊漁港へ向かうことに。適当な方向へ橋を渡って適当な通りの端へ原付を止め、適当な魚市場へと足を踏み入れた。出たとこ勝負である。ふらふらと人混みをすり抜けつつ市の磯と潮の香りを嗅ぎ、何だかいろいろ変わったものに目を楽しませていた。そこに魚の切り身売りのおっちゃんが現れ、本マグロの中トロ三千何某と書いてあるのをこれこれ一緒に買うなら合わせて二千幾らにしちゃるよ、とか言うのだ。値札にはなんの意味があるのか。よく分からないが美味そうだし景気もいい。その真鯛が食いたい、お幾らするのかと聞くと半額程度である。考えているうちにおっちゃんは真鯛二切れのパックをもうビニール袋に突っ込んで、氷貰うならあっちだから、と言う。千円札を渡すと何故かお釣りが返ってきて、おっちゃんはおう間違えたねえ、と笑った。何だか気持ちがいい。そんな空気に飲まれた僕はふらふらと歩いて回って、別のおっちゃんに、酒の肴に向いてるおっちゃんのおすすめ教えてくれと尋ねた。そうだなあ、サヨリの焼いたのなんか美味いよ。そう言っておっちゃんはもうかごに手を伸ばしている。30cm程の大きさの揃ったサヨリを六匹。塩振って焼くのさと教えて貰った。とにかく美味そうでそうしてぶらついているうち、今度は生きたカキとレモンが山積みになっているのを見掛ける。当たり前だが大きさで値段が違う。どうやって生で食うの、とかどのくらい保つの、とか尋ねると、蓋開いたんなら一晩は生でも、と答えてくれた。焼いてもいいし生でもいいし、開いて貝柱切って、レモン汁ぶっかけて、と言うわけなので、三種類の大きさの真ん中を四つ売って頂いた。生もんだからあそこで氷貰ってね、タダだけど箱詰めするんなら四百円だよ、そう言われて、おばちゃんとおねーさんが受付をしているカウンターに発泡スチロール箱と氷をもらいに行った。これだけ買えば沢山だろうと思ったのだ。魚に貝に氷をどっちゃり箱へ入れて貰い、発泡スチロール箱を抱え僕はふらふらと市場を抜けて原付の所へ戻った。原付の荷台は小さいので、ゴム紐できつく括る。もうこの車にも僕の背中にも物を乗せる場所はない。

さて、出発……の前に僕は電話を掛けた。茨城県高萩の友人、Sさん宅へだ。彼とは連休に入る前、一度連絡を取っていた。そっちに遊びに行くから、ついでに寄るかもと。Sさんは勤務時間の不安定な職場にいて、急に仕事が入ることも良くあると言っていた。今日の夜、これから酒飲みに寄ってもいいかと聞きたかったのだが、自宅電話は出ないままだった。仕方がないかと思いながらも、僕の自宅への帰り道は高萩の国道461号線、Sさん宅のすぐそばを通るのだ。一応彼のアパートで待ってみるかと重たい装備で茨城沿岸を北上。住宅地で少し道に迷い、うろ覚えの彼のアパートを見つけた時は日が暮れるちょい前だった。夜に八溝山地の峠越えをするのは気分ではない。というか嫌だ。止むを得ずというかなんというか、僕は結局そのアパートの駐車場の影の片隅にテントを張り、Sさんが夜の間に帰ってくることに淡い期待を抱いて眠りへと落ちた。

道ばたのヤマブキ四日目、最終日。アパートの電気は消えたままだった。ま、そういうことも時にはある。明け方に冷え込んだのでテントの中でガスコンロで暖をとり、陽が昇るまで待つ。朝七時半頃荷物を畳み、Sさんの部屋のポストにメモを残し、栃木へ向かって出発。道中、花貫渓谷の花貫ダムの脇を通り、遅咲きの山桜と木々の新緑のコントラストに目を奪われた。そこかしこにヤマブキが黄金色の花綵のように咲き乱れていて、道すがら山菜採りの方々を幾人も見掛けた。海のものも美味いが山の旬のものも美味い。多羅の芽など摘んで天ぷらや御浸しにするのだろう。国道をひたすら走り、まっすぐ自宅へは帰らずに道々の古本屋へ立ち寄った。水族館でぬいぐるみにさしてお金を掛けなかったことで割合な金額が浮いたままだったので、前々から揃えたいと思っていた蟲師のコミックを探し回ったのだ。数件巡って、蟲師全十巻の他に古本のオフィシャルブックを手に入れた。めちゃんこ重たくて背中が痛い。給油するため鄙びたガソリンスタンドへ入って店のじいちゃんにお願いしていると、満艦飾な格好の原付を見た彼は、旅をなさっているんですね、うらやましいですなあ、と微笑んだ。

戦利品そんなこんなで自宅の部屋へ帰ってきたのが六日の午後二時半。お腹も大概空いていたが、それよりも道中四日間リュックを背負い続けていたことでの背中の痛みと疲れの方が酷かった。うだうだと本棚に手入れして、夕方お風呂に入ってすぐお布団へ潜り込み、硬くなくて寒くない安心できる寝床があることの幸せをしっかりかみしめ、ぐっすりと翌朝まで眠り込んだ。

持ち帰った海の幸については先日家族と食し、ついでに母が実家から貰ってきたシロキ(コシアブラ)の御浸しも一緒に頂いた。こうして僕は旅の思い出と共に海鮮と山菜をたらふく味わったのだった。Sさんに関しては後日連絡が取れ、夏になったら今度は必ず会って酒を飲めるようにしようと約束を交わし、一安心したところ。こうして雑記を書いていると長いようで短いような四日間だったと思う。どちらにしても今日の雑記は長いほう。細かく書けばもっと色々あったと記憶しているけれど、この辺で一区切りにしよう。

あ。昨日は母の日だった。母が祖母を那須のチューリップ畑へ連れて行ったので、同行して二人の写真を撮影し、プリントアウトしたのを渡した。それから取って置きの葛菓子と砂糖菓子をそれぞれに。喜んで貰えたようで、こんな機会でもないと何も出来ないから、ね。今日はここでおしまい。

2011年4月23日(土) 3.11の地震(東日本大震災)で綻んでしまった那須篠原玉藻稲荷神社

貫が落ちた 滑り崩れた石段二十日、久しぶりに玉藻稲荷神社へ行ってきた。この辺りの桜も散り始める頃だからと、油揚と桜酒を持って出掛けてきたのだが、稲荷神社の様子は割合酷かった。社殿と狐塚、創建八百周年記念の朱の鳥居は何ともなかったが、あの地震で石の鳥居は貫(下の横棒)が落ち砕けていて、誰かが除けたのか柱の脇に並んでいた。石段は地面ごと滑ったかのように、や、その通りに崩れて石組みが緩んでいた。

倒れてしまった右のお狐様一番酷かったのは右のお狐様だ。お狐様が乗っていた何枚かの石と碑がまるごと倒れ、お狐様そのものは境内の端っこにちょこんと立っている有様だった。左のお狐様は何ともなかった様子。境内へ至る石段も右側の方が崩れ方は酷かったから、もともとその辺りの地面が柔だった事もあるのだろう。けれど、この近辺は3.11の三度の大揺れで最大震度六強を観測していたそうだ。すらりと背の高く立派にたたずんでいたあの両像が、片方だけでも無事なことに感謝するしかない。社殿に油揚を三切れお供えして、お賽銭と二礼二拍一礼。

水の抜けた鏡が池玉藻の前が正体を見破られ、矢で射貫かれたときの伝承の池、鏡が池も地震の影響を被っているらしかった。水がすっかり抜けて涸れていたのだ。この池は湧水池で、稲荷の手前の水芭蕉の原へそろそろと水を供給している、筈だった。地面の下の構造が違ってしまったのだろうか。湿地そのものはちょいと踏み込んでみると水が染み出してきたから、それらが枯れる事はすぐにはないだろう……けれど。

鳥居と狐塚祠狐塚の手前の鳥居は笠木も貫も倒れて、両の柱だけが立っていた。危険と書かれたテープが張ってあったが、ここまで酒を持ってきておいて帰るのも申し訳ないので、失礼しますと心で呟いてお供えをした。桜の花びらを閉じ込めたお酒だ。玉藻の前はもしかしたらちょっと苦手かもしれないな、なんて苦笑いしつつ。

石段の下、スタンプラリーの看板の前でざっと周囲を眺めてみて、これは当分元には戻らないだろうな、と思った。八百年以上存えていれば色々あっただろうが、今回の地震だってそれらに勝るとも劣らぬ天災だ。近所の氏子の方々が頑張ってくれる事を願うばかり。

ミズバショウ参道を戻って駐車場へ歩いて行くとき、砂利敷きの道のあちこちに桜の花びらがちらほらと落ちている事に気がついた。山桜だろうか。辺りをきょろきょろ見回してみても桜の木なんて無かったし、一体どこから舞い散ってきたんだろう。来たときは気付かなかったが、まさか、ね。

田園と桜在りし日の稲荷神社の事はこの「前髪焦げた」で少し書いたし、ある方がPicasaウェブアルバムに沢山写真をアップして下さっているので(リンク)、かつての玉藻稲荷に興味のある方は是非ご覧なって欲しい。それと、帰り道でのおまけ写真。田に水が入った。もう代?きの季節だ。