午前のみ通所。ポートフォリオの作り方を夜遅くに調べてなんとなくげんなりしている。せっかく休みに入ったのに課題的なものを見つめようとしたからだね……。それはもっとあとで触れればよいこと。ひとまず眠ろう。
2024年9月13日(金)
午前のみ通所してあとはうちでのんびり。なんだかおふとんでのんびりしたらという気持ちだねえ。そのように。
2024年9月12日(木)
午後まで通所。『はじめてのウィトゲンシュタイン』『シッダルタ』を読み終えた。帰りは途中で土砂降りとなり、雨宿り。さいわい雨雲はすぐに通り過ぎてはしごが降りた。うちでは早めに夕餉とし、あとはぬいとのんびり。修理の済んだモニターは先方から発送され、あす戻ってくる手はず。壊れかけていた原付の荷箱とそのついでに前かごを、白い色のものに交換。長いこと使っていた鍵束も手ごろな別のものに替え、旅パのポケモンチャームをつけた。ここ一年間は慢性的に活力が欠乏したまま生きてる。生命力の水準を上げる日常の習慣が必要だと思う。早めに眠るがよい。
2024年9月11日(水)
身の回りの家事をこなしていた日。洗い物で塩素系漂白剤を使ったところ、濯ぎの際にいっしょに放り込んだグレーのオックスフォードシャツが盛大に色落ちしてしまった。へこむ……。その勢いでかわりになるようなのをポチったから元気だそう。ほかにも出費が嵩む。久々に計った体重はううっとなる増え方をしている。おととしくらいから毎年考えていることとして、この秋こそコートを新調したいのだった。なにかに直面するというのは停滞していたものが動き始めた状態とも取れるし、ものごとが期待通りというのもどこかおかしな話で、ひとまずはできることをね。きょうはすること済ませたし、これ書いたらねむる支度。
2024年9月10日(火)
なにごともなかりし日。きのう『場所はいつも旅先だった』を観た。お腹がいっぱいだし、眠ろうか。
2024年9月9日(月)
のんびり。スーパーでくさやが売られているのを見かけ、これがチャンスだと思って購入。ずっと興味だけはあったのだよね。うちでさっそく開封すると緊張の走る臭気を発している(やわらか表現)。それでも焼くうちにその臭いは薄れ、若干のかぐわしさが混じり始めた。あまり焦がさないようふっくら火が通るくらいの焼き加減で、と書かれていたのでその通りに。これ、換気扇をつけたままでないとすごいことになるね……。焼いたくさやを白米といっしょにいただくと、あのにおいが奥深いかおりに感じられておいしい……! たとえば納豆のにおいと美味しさはそれを受け入れているひとなら平気で味わい深く感じるものかと思うけれど、それのよりストロングな食材だった。食の好みが広がった感じがするよ。思えばドリアンやシュールストレミングといった、その臭いのためにきつめの扱いを受けている食材を一度は食べてみたいと思っていたのだった。望みを踏破するときというのは思いのほかあっさりしているものなのかもね。ドリアンはいずれ旅先で味わってみたい。
2024年9月8日(日)
のんびり。原付で買い物から帰る昼ごろ、叩きつけるような土砂降りに見舞われた。なんにせよ服は洗うし靴もそろそろ磨くころだし、濡れるのが反射的にいやなのだな、そう思うと濡れ鼠になっても気は楽だった。雨粒の痛みや温かさ、土砂降りに包まれる独特のくつろぎやおかしさ、夏もそろそろ押し流されていくことを思う。うちへ帰ってきてからは窓辺の机の前でぬいとひたすらのんびり。夕餉のさなか、舌の感覚を感じるままにさせることを唐突に思い出した。言葉で説明するのはむつかしいのだけれど、口に含んだ食べものに対し、舌の味覚や触覚に抑制をかけず耽溺させる感じ。サーモンのお刺身を食みながら美味しさのあまり舌が実際にぴりぴり痺れ、その疼いた感じは時間が経っても残ってる。思えば夜の庭を前に夕餉をとるようになった当初は、そういう戯れるような味わいかたを通してくつろいだひとときを過ごしていたのだった。舌も開発できる部位なのかもね。
2024年9月7日(土)
午前のみ通所。自習か読書をするつもりで向かったらきょうはペタンクというゲームをする日だった。跳ねないボールを投げるカーリングのようなスポーツ。初めての参加だったけれど慣れてくると戦略もあり楽しかった。昨年末のボーリングもいい感じだったし、じぶんは投げる系のスポーツやレジャーに向いているのでは。帰ってきてからは窓辺でぬいとのんびり。エディンバラ シーサイドジンという、海に着想を得たというジンがおいしい。柑橘系の香りは抑えめで、どことなく潮の雰囲気というか、マリン感がある。そして思う、なにかについて思い煩うということ、なにかがストレスだということ、それは矢印としては外向き。状況は個別に捉えるとして、考えるべきはなぜじぶんはそう感じるのかという内向きの矢印なのだった。手当てすべき身体の傷を無視して威嚇を放つなら身体は当然痛みを感じ続ける、そういうものなのかなと思う。いまは気分がかなりフラットになれているし、しばらく休みに入れるしで、これ書いたらのんびり夜更かししよう。
2024年9月6日(金)
午前中のみ通所。いったんうちへ帰ってきてごはんを食べたりしばしまどろんだりして、それから定期通院先へ。主治医に、穏やかに過ごせばよいのに怒りや不愉快なことを際限なく頭の中で蒸し返してしまう、と打ち明けた。先生は「悩んでしまうのはいまのじぶんに必要なことだからかもしれず、取り組むべき問題だと感じているのかもしれないし、解決することで楽になりたいというのもあるだろうし、悩むというとネガティヴだけれど悩むことは必ずしも悪いことではないですよ」という旨をおっしゃった。生活が大きく変わっていくいまのじぶんには必要なプロセスなのかも、というところに大きな安心をいただいた気がするよ。うかがってよかった。帰ってきてからは早めの夕餉を済ませ、それからはぬいといっしょに窓際の机の前で過ごしていた。昼過ぎに庭から手折ってきた八重の小くちなしは宵のころには内側の花弁を開かせており、床へ就くころには残りのもうひと絞りも開くのかなと思って眺めてる。
2024年9月5日(木)
午後まで通所して帰宅。そのあとはのんびり。購入した絵に加え、夜を題材にしたポストカード類を何枚か壁に貼っていた。しっくりくるような配置がむつかしい。。。それなりに生きていると、この時期はこういう歩みといったもの、そのときどきで乗っている潮流のようなものがあると思う。夜というものが病と不眠のためにかさついた苦痛と虚無でしかなかったころもあった。いまは夜の穏やかさに憩いじぶんを預けてさえいる。改めて思う、ひどく乱れた存在だったけれど生きることだけはなんとか手放さなかった、あのころのじぶんが愛おしい。過去のそれぞれの時期でじぶんたちが傷ついたまま待っていてくれて、ここからは一緒にいこうとみんなの手を取れもしたからこそ、ひとりでいることが単なる充実を超えて水入らずですらあるようになった。たぶん、これまでになく楽しい潮流にいる。