2025年12月25日(木)

三者面談のあと、一月で退職されるかたに餞別としてアラベール製のポストカードのセットを渡し、これからしてみたい旅の話などした。あちらからは、四国お遍路を全てではなくとも辿ってみたいとか、いつか海外も行くことができたら、フランスなどヨーロッパが気になる、などと伺った。じぶんが北海道やバンコクと殻を破って飛びだしていった姿に動かされるものがあったそうで、恐縮だけれど光栄でもあると思ったり。しばし話してお別れした。ポストカードのセットそのものは面談時にいらした方々やとくにお世話になっているかたにもお渡しして、その際にクリスマスプレゼントですねと言われたのだった。ことしはさしてクリスマスに縁がなく、それはそれで気にもならず気楽にしていたから、意図したわけでもなく贈る側へ回ったことに悪い気はしないものだね。うちでは久しぶりに野菜と挽肉のスープを作って食べた。これが身体に力をつけてくれたら。帰ってきてから深夜の今まで、断続的に机の上でまどろんでいた。もうおふとんへいこう。

2025年12月24日(水)

やっとましになってきた。この一週間は固形物を口にしておらず、直近の十日間では5kg痩せていた。ここを読み返してみると、日~火曜日にかけての痛みは表現がかなり抑えめで、筆舌に尽くしがたい痛みだったよと振り返る。薬で炎症が引いても荒れきった粘膜が残っていて、そこを回復するにはなにか食べたほうがよい、けれどそれをすると痛いという。買っておいた惣菜の唐揚げをすこし食べた。このたんぱく質が荒れをなんとかするでしょ。病み上がりなためか、それとも余計なことを考える余裕が出てきたのか、気分的にやや不安定な自覚がある。こういうのは徐々に軌道に乗せて日常へ帰すものなので、急がずに。寝るより休むはなかりけり。夜にはそれなりに静かな気持ちで、坂本龍一『Merry Christmas Mr. Lawrence』を聴いている。もう年末もいいところだから、いまのうち、なるべくなら今週中に済ませておきたいことを書き出したり。あまり人間沙汰に巻き込まれるもんじゃないなとか思いつつ、あすの三者面談のことも考えにはあるものの、今夜はそういうのもうやめて静けさを味わったらあたたかく床に就けばよいのではとか思う。いまはなにかが欠けているわけではない、そのことを思えるなら、よい聖夜。

2025年12月22日(月)

朝まではあまりの痛みでよく眠れなかった。仕事をお休みして電話相談のアドバイスに従い耳鼻咽喉科の発熱外来へ。熱はなく、疫病の検査の結果は陰性。細菌感染によるのど風邪らしかった。抗炎症剤や抗菌薬、その他いろいろ処方してもらった。飲むと比較的すぐに痛みは治まっていったけれど、相対的にであり、まだ激痛にもだえながらこれを書いてる。のどの痛みと腫れでむせやすくて文字通り涙目。もう眠ろう。明朝はずっとましになっているはず。

2025年12月21日(日)

なにもせずおふとんに。金曜あたりからのどのあたりに違和感があり、市販のかぜ薬で様子を見ていたものの、きょうののどの痛みは激しくて疫病かな……という。手持ちのタイレノールAやのど飴のヴィックス、経口補水液ほか飲料で過ごしてる。のどが痛いと唾液で潤したくなるのだけれど、のどそのものが痛いうえ腫れているから変なとこへ入りそうになる。うちにあった体温計は三本とも電池切れで熱は測れず。ひとまずあすお休みの連絡を入れてから7119へ掛けて、検査を受けに行くか自宅待機ががよいか訊ねよう。今夜はもう眠るのがよいよ。行動するには問題ないから症状としてはましなほうではと踏んだけれど、口内も荒れて痛い……。なるようになるでしょ。

2025年12月19日(金)

きょうもなにごともなく。え、もう金曜? みたいな。休めているのはよいことだよ。クリスマスの気配がみじんもしないというか、新年まであと二週間を切ったということにも実感が湧かない。そして、冬場の寒さがメンタルに堪える感じもことしはまだない。いろいろありつつも淡々と過ぎていく日々のなかで変化は静かに用意されていくものなので、このまま。そういえばきのう、壊したお隣さんのあれこれの工事が終わったので、お詫びのご挨拶に伺った。大らかに許してくださりひと安心。やっと懸案がひとつ片付いた……という実感は薄めで、まだ後処理や新車のあれこれがあり、それらは気にしてもしかたがないことにつきどうでもよくしておく。

2025年12月16日(火)

午前中は歯科へ行ってあとはゆっくり。なんとなくしんどめだねと思って夕餉のあとはベッドで過ごしていた。そうして食べたぶん膨らむ感覚とか曖昧な具合の悪さとかおなかが微細に動く感覚とかぬいたちと触れている感覚になんとなく意識を向けているうち、身体の声がこれなんだ、という思いがぐっと実感を伴ってきた。なおもそうしていると、身体と、そして心も、いろいろな感覚で話していること、ずっと一緒にいたということにやっと気づいたんだと思えるようになってきた。いつだったかここで、じぶんはじぶんというよりもさまざまな価値観や経験や感受、感情、思考、記憶といったものの複合体、生態系だと思えると書いた記憶があり、ある時点からはじぶんがじぶんたちというそれぞれの過去から来ていまを共に行く複数の自己になったわけだけれど、ここへきてさらに、じぶんたちというのはさまざまな臓器や器官や神経系の寄せ集めとしての身体と、そしてそれら全体で宿る心だと感じる。じぶんたちをそうと認識している意識というのはまるでそれが自己の全てのようだったのに、いまやとてもささやかなもの、体と心に主体を譲りそれらの声を聞くためのもののよう。おなか、よそよそしく言えば消化器がつねに微細に活動している細やかな感覚を感じることが、すごくうれしくて心地いい。心臓の鼓動や血管の脈打つ感じも悪くないし、触れているぬいたちはこの身体の言葉を分かりやすくこちらへ伝えてくれる。いろんな内側の感覚が話している。直近のストレスと不確定要素について体も心もまだいくらかは不安がっていること、そのことはとても正しくてなにひとつ押さえ込む必要がなく耳を傾ければよいこと、控えめになった意識はみんなを守るためにあるよと約束したこと、どれもうれしい。風景や自然といった外からの情報を受け取る感覚が五感だとしたら、身体のなかで生じなかで感じ取る感覚=内受容感覚が織りなすものも、風景や自然のように飽きないものに感じる。この身体と心のことが大好きだな、これからはみんなでずっと一緒にいようねと思う。もしこうしたことを自己との和解とか関係の結び直しと表現するとしたらなんて味気ないんだろう、これはもっとそれ以上のもの、それとももっとこの先があるんだろうか。きょうはもうこの先を急がない。