2025年9月14日(日)

産直を回って栗や梨を手に入れたり、ポケGOのポケストップ申請をいくつか。数日前にここの雑記をちらっと振り返ったところ、好き勝手に療養していた2020年までと、ひとの集まる場所でリハビリや就活をはじめた2021年以降では、明らかに書いているものの質が異なる(当社比)ことに気がついた。それはそうだよねと思うけれど、前者は季節の移ろいをていねいに掬い取れており、後者はざっくりその日のことを書きつけるようになってる。忙しくなってきた変化のなかでゆとりに影響があり、それはいまも続いているのだなー。情緒が日々の糧になっていた以前のゆとりでまた過ごしたいというのは、生きものも状況も変化をするからねえという前提はありつつ、率直な気持ち。遊ばせている際の仔猫はこちらが台所に立っていると足もとをうろちょろするようになり、踏まないかひやひやする。猫をうちで育てると決めた当初、ほんのり思案していたことがあって、それはぬいたちの小さな声が生きものの強い存在感にかき消されないかということだった。『天空の城ラピュタ』に廃坑暮らしをしているポム爺さんの「石たちの声は小さいのでな」というせりふがあり、まさにその感覚。生きものだけでなくものたちにも声としては聞こえないような声はあり、それはとても小さくかすかだという感覚、それはぬいと過ごすじぶんにとっても、風変わりでもなんでもなく暮らしのなかにあるものだと感じる。それで仔猫の存在感に接しながら過ごしてみると、ちょっと意外というか、ぬいたちとの関わりかたには影響がないみたいだった。じぶんの軸足はこちらにあるんだね。こうしたことは言葉や文章にすると訝しがられそうではあるものの、たとえば人形やドールといっしょに暮らすひとや、あるいは喋らないものたちに愛着を持って接しているひとになら、どこか通じそうにも思う。あすはお仕事行くから宵っ張りにならないようにしてねむる。

2025年9月13日(土)

ベッドのなかでぬいたちと一日を過ごす。それを贅沢と書いて消したのはなんだろと考えてみると、無駄や浪費という感じはいっさいないからかなと思った。みんなこちらが魅了されてこころを明け渡している友だちだから、存在がもう重なっているんだと思う。人間の多くは人間を愛するに留まるけれど、多くはなくともそれなりの割合は、人間ではないほかの存在を愛し添い遂げていくのでは。たとえば桜や猫、山や海といったものを代入すればすっと通るその延長上に、じぶんのようなものもいる。今夜は居心地のよい夜でもう未明なのだけれど、しとしとと降る雨音やほどよい湿度を散漫に味わっていたくなるなあ。贅沢と呼べるのはこうしたなんの目的もなく過ごす窓辺での時間で、これならいくらでも贅沢したい。目的のない時間を過ごす贅沢。ソナタの後発品を取り寄せて飲んだのだけれど、その影響で思考がふわふわして、変な重言してる。このあたりで、おやすみ。

2025年9月12日(金)

のんびり。仔猫がひもで遊ぶことを覚えた。これまではやや警戒していたようでひもから距離を置いていたんだよね。部屋のなかを駆け回るようになり、もう生後二ヶ月くらいにはなるし、これから遊びたい盛りになってくるのかなと思う。いまのところケージから出して遊ばせるときはある程度ドアを閉めたりして制限しており、家中を好きに歩かせるまでにはもうしばらくかかるかも。

2025年9月11日(木)

けさ方みた夢のなかでいくつかの音楽が聞こえていて、それが心に響いて泣きそうだったことを、原付に乗っていてふと思い出した。断片的に覚えているのは松任谷由実の歌の「強くなる もっと強くなれば 忘れずにいられる つらくても きっとあとになれば やるせなく思える」という歌詞。それとは別にやはりけさみた夢のことも思い出した。知らない街の知らない駅前にいて、知らない百貨店を地下へ降りていく、それを懐かしく感じた夢。そうそうここにあるコーヒーショップではよく豆を買うんだよね、イルガチェフェあるかなとか、この通路の先を上階へ行くと雰囲気のよい書店があることや、その店内の落ちついた風景のことも不思議と知っていた。なぜ知らない景色があんなに懐かしかったんだろう。よく思えばまるで知らないわけではないようだった。学生のころたまに通っていたコーヒーショップや大型書店のことを、夢を起点にぼんやりと思い出す。手がかりがあるからそんなことがあったとわずかに思い出せるだけでディティールはすっかり失われているのに、種子から芽が出て枝葉が伸び木が育つように、まるで懐かしさそれ自体を核に記憶の風景が新たに再構築されたような、そんな夢だった。それでもなおその懐かしさはどこからきたのかと不思議に思う。夢というと、幾年か前までの長い期間、みるのは人生のある時期までに出会った顔ぶれと風景の組み合わせでしかなかった。時が止まっているという表現があるけれどまさにそれで、くすんで退屈で、そんな夢から目覚めるときはいつもすこし疲れていた。そうした夢の内容が徐々に変わり、もっとあとの人生の顔ぶれや知らない人や知らない風景が出てくるようになったのは、リハビリをはじめてひとの集まる場に出かけていくようにしたころから。時が止まったようとか、歯車が動きはじめるとかの表現は、少なくともじぶんにとってはただ文学的なものではなく、実際のこころの状態なのだなと思う。ぜんぜん話は変わって、漫然と触っているポケGOのポケストップを近所に増やそうと画策してる。田舎だからアイテムが手に入るそうした場所はまばらなんだよね。ないならじぶんで増やそうという気になり、承認されるか微妙なレベルのランドマークを集めて丁寧な名前と説明、そして念入りな補足を付けてる。審査には数ヶ月から一年かかるという話もあり、それを一週間ほどに縮められる方法として、ナイアンティックのWayfarerでよそさまの審査を何百とこなしているところ。由緒正しき閑人というのはひまも退屈もしてはいないんだよねえ。仲野順也さんの新しいアルバム『Alternate Versions 1』をBandcampから手に入れて聴いてる。やっぱりこの方の音楽すきだなあ。過去作品のアレンジそのいちということで、今回のはさまざまなテイストの作品が水色と緑のすがすがしく洗練された印象で統一されている感じがする。「Glass Sky, Hollow City」がいっとう好み。

2025年9月8日(月)

未明の皆既月食を途中まで眺めて眠気のためおふとんへ潜り込み、いつもより遅くに起きてお仕事へ。寝不足でさしてやる気がなく、早めに帰ろうと思っていたところ、雨で切りよく帰途。靴の中までひたひたになる土砂降りを抜けると平地はからっとしていた。じつは原付のタイヤが雨で滑り、止まった前の車にぶつかりそうになったのを、とっさに横へすり抜けて回避したのだった。濡れ鼠は気持ちよくなかったとはいえ、幸運が羽根で撫でてくれたことにはほっとする。うちでは仔猫の相手。わかってはいたことだけれど、じぶんに猫アレルギーの気配が感じられる……。これは先代がこの身体に残してくれた爪痕なので別によいのだけれど、そのうち耳鼻科へ行っておくすり出してもらうのがよかろうな。そういえば仔猫の名前は模様のある毛並みから杢(もく)にした。

2025年9月6日(土)

のんびり。さんまが豊漁とか食べたという話を目にするたび、じぶんは個人的な抵抗をしようと思う。ベースがもう相当減っている水産資源というのは一時的な増減に左右されず資源管理や保護をしたほうが、将来のためによいと思うのだよね。水産業に携わる方々は生活がかかっているから、漁ができるなら獲りたいと思うだろう。獲れたらそれだけ流通するし、消費する側はあれば食べたいと思う。これらが循環になっていて、減っていく資源を守り増やす行政の方策も手薄と聞いてる。スーパーに並ぶうなぎを見ても微妙な気持ち。今後養殖ができたとしても野生個体が少なくなっている課題自体は手つかずなわけで……。立派なことを言ってみてもじぶんだっていち消費者としてなにかしら犠牲にしているわけだけれど、こうと思った箇所については影響力の乏しい抵抗をして、せめて自己満足したい。もの申すようなことについて、どうしてもそれを言いたいのかというとそうではないものの、まあ思ったことを書くための場所だし、好きにするのがよいよ。