2025年10月4日(土)

昼から小雨が降ったり止んだり。現在、他者の/他者からの境界を侵食するような交わりというものをじぶんは嫌悪しているわけだけれど、もしかしたら比較的多くの人々にとってそれは、親密さや愛情の表現としても通るものなのかもしれない。よいことかはわからない。ただ、双方が健全な自他境界を持っていればそれも一定の範囲内で成り立つかもしれないけれど、そうしたことばかりではないから世には人間関係の悩みというものもあるのであって。じぶんは境界が曖昧だったためしばしば関係性の傾きを許し、それが、心に穴の開いたひとたちからの餓えに因る脅威的言動を招きがちだった、のでは。ざっくり言うと依存や侵入がされやすい。たぶんね、他者を自己の延長としない、所有物のようにコントロールしない、親しき仲にも礼儀ありといった境界の引き方ができるっていうのは、そのほうが貴重な存在なんだよ、きっと。自他の主体性や自律性を尊重するというのは、当然のように聞こえながらも陥穽の多い、高度なことなのだろう。じぶんはこれまで境界線の引き方が下手だったところから、愛着の傷や内なる子どもを癒やす段階へ入って急速に自他境界をきちんと引こうとしているわけで、過渡期にはいろいろあって大変だというのはそう。でも、ゴールへではなくプロセスを行くことについてはわりあい腹落ちしているとも思うし、いずれ落ち着くときがきたらそうと気づくよ。それにしても対人関係の善し悪しってリスペクトの有無でかなり決まる気がするというか、じぶんはリスペクトを重んじているのだな。話変わり夏が過ぎてしみじみと思う、すいかはもっともっと食べていたい……。呼吸について意識を向けていると、深呼吸すればこんなに空気は入るのに、よくもまあ大さじ一杯くらい(?)の浅い息づかいで生きてきたなーみたいに思う。いまわりと長い揺れがあってぬいたちと様子をうかがっていた。夜は緊張せずにくつろいでいたいんだよねえ。のんびりする。

2025年10月3日(金)

定期通院先へ。帰り道、市街を見下ろせる高台へ久しぶりに上がって夕方の空を眺めた。その辺りは古い住宅地で、こんな場所の窓際から夜の街明かりを眺められたら素敵だなあと思う。住んでみたい場所については、林縁かつ空が見えるところとか、草原の見晴らしよい位置とか、そんなのを思い浮かべることもあったのだけれど、街明かりが見えたり小高い場所もよいな。山の手といえばよいお値段するものだとしても。そうしたものを思い浮かべるとき、ふわっとどこか知らない洋風のイメージが伴う。憧れみたいなものは心のどこかにあるらしく、もしお望みとあれば行きたいところへ行って泊まったりもできるのだよね、基本的には。そんなことも考えるようになったのだなー。日没前後の空の縁にはやわらかい青が現れており、あのやわらかさは秋冬特有のものだということを思い出す。風が強くて星の見えるような晩が待ち遠しい。

2025年10月2日(木)

なにごともなくごろごろ。ふと思いついてまたたびのつるを採ってきたものの、仔猫はとくに反応せず。採ったのはまたたびであっているはずなんだけれど……そうだとしても幼猫に与えすぎるのは健康によくないという記述をウェブで見かけ、これはいったんお預けにした。このところの雑記をざっくり振り返ると書く量が多めで、これはなんだろと思う。元気になってきたしるしならよいけれど、あとから疲れたり体調を崩す予兆だとしたら避けたいから、すこし様子見してもよさそうね。夜更かししていたら新聞配達の原付がおもてを行くらしい音。苦しくもないし時間を気にしなくてもよいことに、こころが静か。草むらから虫の音が聞こえる。

2025年10月1日(水)

雨のため涼しい一日。夕暮れ、冷えを感じてベッドへ潜り込み、しばらく眠り込んでいた。その眠りのなかでなぜか、トーベ・ヤンソンが小説のムーミンシリーズに区切りを付けた『ムーミンパパ海へいく』『ムーミン谷の十一月』のふたつのことが、すっと腑に落ちるように感じられたのだった。評判が高まっていく一方だったムーミンシリーズに対して、トーベは次第にわだかまりのようなものを抱えるようにもなったそう。そのために上記の対となる二作があり、シリーズの最後に位置してる。それとはすこし別軸で、作を追うごとにテーマが外の脅威から登場人物の内面へと移り変わるんだよね。そこには時代背景や作者の変化もあるだろうけれど、眠りのなかで思ったのは、作者と読者が共同で作り上げたキャラクターのイメージがいつしかキャラクターの「そのひとらしさ」を縛るようになったのでは、だからトーベは区切りを付けるにあたってその二作内で登場人物たちの大幅な変化や成長、それまでと異なる側面を持ち込んだのでは、ということ。それはキャラクターをより自然体に、より自由に解き放つ、優しいことだなと思った。『十一月』の終盤で顕著なのだけれど、登場人物それぞれが自分のお話が「おしまい」になるのを待っているんだよね。眠りながらそのことが深く腑に落ちたというか体感として入ってきて、それはとてもさみしくて心細くて、でもすごく新鮮でみんながいきいきとしているように感じられた。わりと唐突に登場するスクルッタじいさんが終盤で語る、ムーミン谷を流れるあの小川は大河だったんだ、いつしか大河になってしまったんだ、というところにこちらで実感が伴ってぎゅっとなる。この子は分かりづらいと思っていたホムサ・トフトはたぶん、「あの」ムーミンを書いてほしい、「ああいう」ムーミンの続きが読みたい読者、という側面を持っているのでは。いま考えたら初めからそう描写されているので当たり前なのだった。『海』のことは個人的にはこれまで家族の再生がテーマだと思ってきたけれど、ムーミンパパのパパらしさ、ムーミンママのママらしさ、ムーミントロールのムーミントロールらしさ、それら固まったイメージからみんなをより自由にしたうえでシリーズから退く、そうしたことが本題なのかもと思う。小学生のころから飽きもせず読んでて作品の位置づけくらいは知っているつもりだったのに、ここまできてやっと、このふたつの作品のことがなんだか分かるような、伝わってくるような気がする。こうした思いをうとうとと巡らせるにあたって、本を開かなくても物語を諳んじているところが、じぶんでもすこしおもしろかった。そしてきょうという日があったことがうれしい。例年ならちょうど『海』と、それに続いて『十一月』を読みはじめる時期なので、いまから本を手に取ればきっとまた新鮮なのだろうね。ぜんぶ夢での話なのにへんに熱意がこもっていて具体的……。もしかしてじぶん、夢のなかでは起きているときよりずっと感情豊かなのでは。

2025年9月30日(火)

お仕事へ。館の中庭にはもともと山野草やスプリング・エフェメラルが植えられており、もっかその大部分にドクダミがはびこっている。ドクダミの勢いは強く、おそらく地下茎はぎちぎちに根を張っており、ほかの植物を駆逐しそうな状況。……なのをもう一度お客さまにお見せできるようにできるとよいねという話が雇用された当初からある。それで要件や選択肢や損益から対処のためのプランを立て、そこから逆算していま行う(こちらがする)必要のあることについての提案を折に触れしているのだけれど。けれど、という。いつまでも悩んだり話し合ったりしても、機会が減っていくだけで、銀の弾丸は見つからないと思うんだよねえ。。。たぶんこれはじぶんが引き受けすぎで、みなさん困らないからこそGOを出す必要もないということでは。ほんのり不満。というか世の中には己のためであれ決断したくないひとが多いん? じぶんのことも含めわからない。解決志向が強い性質ぽいのはそれとなく自覚でてきたけれど、空回りするくらいならごろごろしてるほうがすきだなー。まあね、妙にやる気出すやつがいるとそれはそれで困るというのはあるだろうし、賃金なりの働きと責任だけでよいわけで、じぶんの場合はあんまり引き受けないくらいでだいじょうぶだよ。いま思ったのは、そんなに仕事がすきなの? という問いで、いいえ。ならば適当にするがよい。この結論のために遠回りしたな。きょうは今季初のひとり鍋をした。高原の朝はちょっと冷えて、服の上にもうひとつ着るものが欲しくなる。修理に出したスマホは保証が効かない故障をしており、すごい額の見積もりが寄せられたためその先をキャンセルした。出費が嵩むことを考えるとげんなりするから、深呼吸でもしてのんびりする。

2025年9月29日(月)

お仕事のあとカラオケをしてうちで仔猫の相手。同僚のひとりが疫病でお休みしているとのこと。動きやすい季節だからいろいろ指示しやすいように、ということで、なるべくTさんが出勤している曜日に合わせて来てほしいと頼まれた。それはよいとして、お休みしている方とTさんとの兼ね合いからあす出勤したものか、その場で訊ねておけばよかった。明朝の気分で決めようか。帰りに一時間ほど歌いカラオケ店から出た道々、数分かせいぜい十分くらいのあいだ、楽しいという感じをほんのり余韻のように感じた。すごい。じぶんはパーソナリティ特性や感情の抑圧などたぶんいろいろな理由から、ポジティヴな感情の感じかたが水のように淡いのだよね。この身体から生じる楽しいという高揚した感じって、感じられるんだ……。おとといにはふわっと薫った金木犀は、もうどこを走っていても風に乗って流れてる。あんなに暑かった夏も洗い流されてすっかり秋風が吹くことだし、そろそろひとり鍋をしたい。しまっておいた小さな土鍋はいつのまにかふたが割れて使い物にならなくなっていたから、そのうち新調を。鍋というとサークルにいたころの鍋会の思い出がよみがえるなー。めちゃくちゃなときにあってもそうしたことは輝かしかったのだろね。幸せの風景って、ひとんちのアパートの狭い玄関が脱がれた靴で埋まっている眺め。このところ疾患と過去の経験について触れることがよくあるのは、よく言えば一段落して振り返りや解釈ができるようになったということでもあろうし、別の見方をすればもうそこにはいないことを確認しているのかもしれない。なんにせよ古傷を撫でる愛しさ。文章をばたばたと打ち込んでいるときって体調は悪くはないのだよね。ひとまずあすのためにねむる支度。谷川俊太郎『行先は未定です』(朝日新聞出版)を読み終えた。

2025年9月28日(日)

スマホを修理へ出した。洗ったりシャワーがかかったりするとレンズの内側に水が入るようになったんだよね。さいわい下取りに出さず手元に残した予備機があるから、修理中の不便はなさそう。産直で四角豆(うりずん)を手に入れナムルにした。初めて食べるように思うけれど、特有の風味と歯ごたえがおいしい……。疲れやすさや怒りなどネガティヴ思考の反芻について、要因となっていそうなことや変えられそうなことを書き出したり、ChatGPTに相談したりしていた。あれこれあるなかで呼吸の浅さは影響が大きいかなと思い、夕方くらいから深い呼吸を心がけてみたところ、なんか今夜は思考の反芻をしないね? というわかりやすい手応え。たまたまという要素もあるにしろ、呼吸を深く整えることに関してはさまざまな方面からメリットを聞くし、気分が多少すっきりするような気もするから習慣化したいなー。声や呼吸のあたりにはこれまでの生き方が反映された課題があると感じていたから、覚えたカラオケの楽しさも含めてじっくりここちよいかたちで、変えたいものは変えて楽になれたら。ふと思ったこととして、ここで雑記を書きつけることはもうそれ自体が目的化した、自己目的的なことなのは自覚しているのだけれど、書くことで毎日ささやかなフロー状態に入っているのでは。どうだろ。たんに書きつけることのコストがなくなって習慣として書いているだけかも。どう捉えてもすることは変わらないんだけれどさ。深呼吸のおかげかねむたい。あすに備えておふとんへ。

2025年9月26日(金)

引き続きのんびり。コンビニでとなりにいた親子連れが商品を落としてしまったので元に戻したら、子どもが「うちのおかーさんもときどきそういうの指にぬってる」と話しかけてくれた。ありがとうねと言って手を振ったら振り返してくれた、のがきょうのハイライト。楽な日なので、ネガティヴな思考や感情の出処について思うことがあったりなかったり。疾患に関してはもう折り合いがつき、日常は取り戻したし、もししてみたいことがあるならそれに取り組んだっていいんだよ、というところにいる。たぶん人類史が始まるころからついて回った根深い病であり、この疾患を抱えつつ日常を送ることは、精神とその医療という地図のない暗黒大陸を渡ってこれまでにないフロンティアに立っている、そうしたスピリットだと誰にも言わないけれど自負してる。ここからの課題は疾患という氷が溶けたらその下から現れた、愛着障害やアダルトチルドレンといったものについて。現状の取り組みはすでによい線を行っており、必要なのは時間をかけることだという感触がある。じぶんのなかでとくに傷の深かった各時期をこぎつね、うさぎ、おおかみの三人にし、じぶん自身が親となってみんなといっしょに行くことにしたとき、もう方向性は定まっていたんだなーと思う。冒頭のネガティヴな思考や感情についてはいちばん怒りが深いうさぎの子の声みたいなので、そのじぶんの手をつないで大切にしてあげること、それがいまのじぶんが引き受けたこと。知識や理解はどれだけあっても役に立つのだし、本を読み込むことをゆるゆる再開してもよい頃合いなのかもねえ。こうして書いてみると迷ってはいないみたいで、それって今なりにしんどさはありつつもかなり楽になれているし、こうした現状を幸せとして随時捉えてみることにはよい作用があろうな。それから大切なのは変化を求めていくこと。囲いをつくってその内に安住するより、縄張りから出ていくような認知のほうがおもしろいことは多いはず。まったく別の話になるのだけれど、ここまで生きてみると、なにかの計らいかのように絶妙なタイミングや流れの変化、声にならないかすかな呼び声というものがあったりする。世の中、というより世界には、不思議な理がいろいろあるのだろなと感じる。それは時間や空間を越えて網のように張り巡らされたもの、普遍性と言い換えてもよいもので、それにじぶん自身を接続することは芽生えのようなもの、旅のようなことなのだろう。大切なのは実感なんだといつだったか書いた気がするけれど、いまもそう思う。魂はあるし、妖精もいる。これってただ思考に浮かべていないで言葉にしておいたほうが好ましいのではといま思ったので、そのように。窓辺でのんびりしよう。