雨のため涼しい一日。夕暮れ、冷えを感じてベッドへ潜り込み、しばらく眠り込んでいた。その眠りのなかでなぜか、トーベ・ヤンソンが小説のムーミンシリーズに区切りを付けた『ムーミンパパ海へいく』『ムーミン谷の十一月』のふたつのことが、すっと腑に落ちるように感じられたのだった。評判が高まっていく一方だったムーミンシリーズに対して、トーベは次第にわだかまりのようなものを抱えるようにもなったそう。そのために上記の対となる二作があり、シリーズの最後に位置してる。それとはすこし別軸で、作を追うごとにテーマが外の脅威から登場人物の内面へと移り変わるんだよね。そこには時代背景や作者の変化もあるだろうけれど、眠りのなかで思ったのは、作者と読者が共同で作り上げたキャラクターのイメージがいつしかキャラクターの「そのひとらしさ」を縛るようになったのでは、だからトーベは区切りを付けるにあたってその二作内で登場人物たちの大幅な変化や成長、それまでと異なる側面を持ち込んだのでは、ということ。それはキャラクターをより自然体に、より自由に解き放つ、優しいことだなと思った。『十一月』の終盤で顕著なのだけれど、登場人物それぞれが自分のお話が「おしまい」になるのを待っているんだよね。眠りながらそのことが深く腑に落ちたというか体感として入ってきて、それはとてもさみしくて心細くて、でもすごく新鮮でみんながいきいきとしているように感じられた。わりと唐突に登場するスクルッタじいさんが終盤で語る、ムーミン谷を流れるあの小川は大河だったんだ、いつしか大河になってしまったんだ、というところにこちらで実感が伴ってぎゅっとなる。この子は分かりづらいと思っていたホムサ・トフトはたぶん、「あの」ムーミンを書いてほしい、「ああいう」ムーミンの続きが読みたい読者、という側面を持っているのでは。いま考えたら初めからそう描写されているので当たり前なのだった。『海』のことは個人的にはこれまで家族の再生がテーマだと思ってきたけれど、ムーミンパパのパパらしさ、ムーミンママのママらしさ、ムーミントロールのムーミントロールらしさ、それら固まったイメージからみんなをより自由にしたうえでシリーズから退く、そうしたことが本題なのかもと思う。小学生のころから飽きもせず読んでて作品の位置づけくらいは知っているつもりだったのに、ここまできてやっと、このふたつの作品のことがなんだか分かるような、伝わってくるような気がする。こうした思いをうとうとと巡らせるにあたって、本を開かなくても物語を諳んじているところが、じぶんでもすこしおもしろかった。そしてきょうという日があったことがうれしい。例年ならちょうど『海』と、それに続いて『十一月』を読みはじめる時期なので、いまから本を手に取ればきっとまた新鮮なのだろうね。ぜんぶ夢での話なのにへんに熱意がこもっていて具体的……。もしかしてじぶん、夢のなかでは起きているときよりずっと感情豊かなのでは。