お仕事のあとカラオケをしてうちで仔猫の相手。同僚のひとりが疫病でお休みしているとのこと。動きやすい季節だからいろいろ指示しやすいように、ということで、なるべくTさんが出勤している曜日に合わせて来てほしいと頼まれた。それはよいとして、お休みしている方とTさんとの兼ね合いからあす出勤したものか、その場で訊ねておけばよかった。明朝の気分で決めようか。帰りに一時間ほど歌いカラオケ店から出た道々、数分かせいぜい十分くらいのあいだ、楽しいという感じをほんのり余韻のように感じた。すごい。じぶんはパーソナリティ特性や感情の抑圧などたぶんいろいろな理由から、ポジティヴな感情の感じかたが水のように淡いのだよね。この身体から生じる楽しいという高揚した感じって、感じられるんだ……。おとといにはふわっと薫った金木犀は、もうどこを走っていても風に乗って流れてる。あんなに暑かった夏も洗い流されてすっかり秋風が吹くことだし、そろそろひとり鍋をしたい。しまっておいた小さな土鍋はいつのまにかふたが割れて使い物にならなくなっていたから、そのうち新調を。鍋というとサークルにいたころの鍋会の思い出がよみがえるなー。めちゃくちゃなときにあってもそうしたことは輝かしかったのだろね。幸せの風景って、ひとんちのアパートの狭い玄関が脱がれた靴で埋まっている眺め。このところ疾患と過去の経験について触れることがよくあるのは、よく言えば一段落して振り返りや解釈ができるようになったということでもあろうし、別の見方をすればもうそこにはいないことを確認しているのかもしれない。なんにせよ古傷を撫でる愛しさ。文章をばたばたと打ち込んでいるときって体調は悪くはないのだよね。ひとまずあすのためにねむる支度。谷川俊太郎『行先は未定です』(朝日新聞出版)を読み終えた。