2025年9月26日(金)

引き続きのんびり。コンビニでとなりにいた親子連れが商品を落としてしまったので元に戻したら、子どもが「うちのおかーさんもときどきそういうの指にぬってる」と話しかけてくれた。ありがとうねと言って手を振ったら振り返してくれた、のがきょうのハイライト。楽な日なので、ネガティヴな思考や感情の出処について思うことがあったりなかったり。疾患に関してはもう折り合いがつき、日常は取り戻したし、もししてみたいことがあるならそれに取り組んだっていいんだよ、というところにいる。たぶん人類史が始まるころからついて回った根深い病であり、この疾患を抱えつつ日常を送ることは、精神とその医療という地図のない暗黒大陸を渡ってこれまでにないフロンティアに立っている、そうしたスピリットだと誰にも言わないけれど自負してる。ここからの課題は疾患という氷が溶けたらその下から現れた、愛着障害やアダルトチルドレンといったものについて。現状の取り組みはすでによい線を行っており、必要なのは時間をかけることだという感触がある。じぶんのなかでとくに傷の深かった各時期をこぎつね、うさぎ、おおかみの三人にし、じぶん自身が親となってみんなといっしょに行くことにしたとき、もう方向性は定まっていたんだなーと思う。冒頭のネガティヴな思考や感情についてはいちばん怒りが深いうさぎの子の声みたいなので、そのじぶんの手をつないで大切にしてあげること、それがいまのじぶんが引き受けたこと。知識や理解はどれだけあっても役に立つのだし、本を読み込むことをゆるゆる再開してもよい頃合いなのかもねえ。こうして書いてみると迷ってはいないみたいで、それって今なりにしんどさはありつつもかなり楽になれているし、こうした現状を幸せとして随時捉えてみることにはよい作用があろうな。それから大切なのは変化を求めていくこと。囲いをつくってその内に安住するより、縄張りから出ていくような認知のほうがおもしろいことは多いはず。まったく別の話になるのだけれど、ここまで生きてみると、なにかの計らいかのように絶妙なタイミングや流れの変化、声にならないかすかな呼び声というものがあったりする。世の中、というより世界には、不思議な理がいろいろあるのだろなと感じる。それは時間や空間を越えて網のように張り巡らされたもの、普遍性と言い換えてもよいもので、それにじぶん自身を接続することは芽生えのようなもの、旅のようなことなのだろう。大切なのは実感なんだといつだったか書いた気がするけれど、いまもそう思う。魂はあるし、妖精もいる。これってただ思考に浮かべていないで言葉にしておいたほうが好ましいのではといま思ったので、そのように。窓辺でのんびりしよう。

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