朝、雨降りにつきあすまでお休みの電話を入れた。だるい件は指示した方に報告したところ、話に入ってもらうことに。しんどさから抜けた日。降ったり止んだり、日差しもさしたりと、気温は抑えめで湿度のわりに過ごしやすい天気だった。夜に窓辺でぬいとのんびりしていて旅客機の音を耳にしつつ、感受が外界へ向かっていることにほっとする。ふと思う、頑張りすぎ、引き受けすぎ、とアドバイスしてくれる人たちは周りに複数いるけれど、こういう思いでしているのだから見守るに留めてほしい、というように境界を引いたことがなかった。すればよいことをしなかったのは、いやでも、と返ってくるだろうことに無気力を覚えるからで、望み通りでありたい箇所には繰り返し境界線を引けばよいことなのだった。たぶん、アドバイスをすれば耳を傾けるひとという認識には、よいところもそうでないところもあるのだろう。いまやっと芯を形づくっているところで、ありがたいからといってなんにでも頷くのはそろそろ考え直す時期なのだろな。瞬発的な判断が出にくいのはじぶんの感情形成的な背景からしてひとまずそういうものと前提を置いたほうが楽だし、アドレナリンが即座に出るような神経系でいるよりはくつろぎすぎるじぶんがよいよ。じぶんの善し悪しで選択していることについて面倒でも、そのことだけでも、説明しよう。。。別の話として、孤独と呼ばれているものが世間ではいかに避けたいものか折に触れ語られるのを見るにつけ、あなた方はそうなんですねみたいになる。この話の留意点はただひとりでいられることと孤立感が別物なこと。こんな場末だからひっそり書くけれど、じぶんはおそらくすでにじぶんとの折り合いがついており、じぶんがすき、ひとりでいるときこそじぶんと共にいられる、という状態になっているのだろな。シゾイドパーソナリティーというのは背景や説明用の言葉でしかない。病中の沈潜、暗闇を行く感じ、あの時間が自己との対話になっていたのかもしれず、それと引き換えにいまの静かなよろこびやくつろぎが得られたのかもというのは、物語の様式のような不思議さがある。しんどさから抜けたのはそうとしていつもより書いているような。もう二時。これ書き込んで窓辺でのんびりする。