2020年11月8日(日)

市の文化祭へ。会場の入り口付近で参加票を書き、検温してから入場シールをもらう。僕のようなふらふら集まってきたものが言うのもあれなのだけれど、標準的な対策を施した上で開かれたイベントだったことに、丸裸ではないのだなーという多少の安心感はあった。ただ、目当てにしていた小中学生の美術作品は一切展示されておらず。このイベントでは柱となるはずの出し物だけれど、そういうの設営したりそこへ人が滞在していくことを考えると、衛生上やむを得ないのかもしれない。菊の花も今年は展示されていなかった。そちらは先日書いた状態のまま道の駅に並んでいるんだろう。半ば屋外なステージでギターを弾く男性の歌を聴いたり、フリマを覗いてビートルズのレコードを買ったり。会場を訪れる人足は例年通りに見えた。それから一度帰宅して夕どきを待ち、再び市街へ出かけて散歩しながら写真を撮った。写真って、やっていることとしては風景を視線に沿って切り出すものだと思うのだけれど、今回は午前の行動で疲れていたからか、そうした「おっ?」と感じる歩留まりというか頻度が露骨に落ちた。創作で関心を維持するなら、心身の疲れは真っ先に取り除くべきだな……。出発前に地図上で見つけた中国茶の店の前も通った。茶葉の商店かと思いきや、ドア越しに見る手狭な店内にはテーブルや椅子が並んでいたから、どちらかというと喫茶寄りの店なんだろう。それならこちらがもっと元気なときに来ようと思って帰着。少し話がずれるけれど、市内の純喫茶「茶羅」がこの伝染病のあおりを受けて閉店したそう。あの店のメニューにあった生卵入りのコーヒーはとうとう頼むことがなかった。町の風景なだけでなく多少は思い出のよすがでもあったから、それがもうないことを思うとしみじみとさみしく、むなしい。そんなわけで気になる喫茶店には入れるとき入っておいた方がいいんだろな。市街地にはほかにも紅茶がおもな喫茶店を確認してる。コーヒーではなくお茶のお店ってこのあたりでは貴重だ。なにかをしようとして自分の感情を確認するその都度、判断は揺らいでぶれて、なにに対してもちっとも誠実じゃないなと思う。そもそもの感情で判断するところが悪手だ。苦い顔をしてでも意思を頼りにすべしということは分かるのだけれど、その場の気持ちにライドされてしまう……。病的というか疾患の後遺症に近いものなので飲み込むほか余地のない部分もかみ締めつつ、なんとかできないのかなこれと手をこまねいてる。

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