体調は戻ってひと安心。『悪人正機』を読み終えてハ・ワン『あやうく一生懸命生きるところだった』(岡崎暢子訳、ダイヤモンド社)を読みはじめた。日が暮れたころ、なんとなくごはんを食べに行こうかという気分になり、タイ料理のお店でごはんを食べた。うん、本場の味を知ってるってこういうことかーという側面もあれば、そこのトムヤムクンは間違いなく美味しく、時間が早かったのかひとりで気楽だったこともあり、旅の記憶を振り返ったりしていた。多層化されたじぶんたちが同席している、じぶんにとっての現実の風景にほほ笑んだり。いまこれを書きながら思うのは、きのうの不安はやはりかなりの部分が体調由来の気分の揺らぎだったという手応えと、それを把握して圧倒されずにやり過ごそうとするじぶんのささやかな長所。じぶんで褒めよう、えらい。突然別件になるけれど、目にとまる誰かに対して、このひとは自分自身と和解していそうかどうか、という視点がさいきんじぶんのうちに芽生えた感。それはとりもなおさずじぶんはどれくらいそうなのだろうかという問いの延長で、このところのテーマなのだな。そんなものがなにになると言えば全てだと言ってよいものだった。おそらくじぶんの疲れやすさにも影響があるはず。いくつか本を読んでみて思う、この和解と便宜上呼ぶプロセスは自分自身のことなのに、協力的な他者がいてこそ功奏する。元通所先でじぶんが獲得したのは仕事についての理解や一連の経験よりも、手を差し伸べてくれる方たちの存在そのものが安全基地となってくれたという肌感なのでは。仕事のあれこれはじつはオプションで、そこでしていたのは愛着のケアだったのでは。他者と安全の関係を構築するという回り道を経由することで自己と和解できるという、一見よくわからないけれど子どもの成長という線で見ると明らかな手順は、きっと大人になってから踏むのは状況から見て大変なのだろね。また少し別件になるけれど、就労支援の現場ではよく社会性が大切ということが言われており、確かにいろいろな意味で痛感はしたものの、それってきちんと切り分けないと怖いと思った。意地悪く言うと、なんら公正でもないいびつな世間の声を内面化して、その声につねに自己をジャッジさせる、そうやって社会の一部となる、それが社会性と呼ばれているものの一側面だと個人的には解釈してる。だからそれは必要に応じて着脱自在なペルソナ扱いで別によいはずなんだよね。自己判断で外した際にそれでは社会性がないと口を揃えて言われたの、それはそれで根に持ってるんだな……。なんでこんなことを書くんだろうと思うと、それはじぶんの関心でもあり、だから『悪人正機』や『あやうく一生懸命生きるところだった』みたいな本を読んでいる途中でなおさらなのだな、という。ところで、新車のカーゴはまだ各部のフィルムもめんどくさくて剥がさず、夏タイヤも積んだまま乗っているのだけれど、そのへん手入れして敷き布団と掛け布団を買ってきて積めば、ひとまず車中泊仕様になるんだねと思った。いまのところ思うだけ。自覚が薄いだけで、いまかなりな自由と行動圏を手にしているのだろな。なにかするのは別に暖かくなってからでもよいよ。
2026年2月4日(水)
モニターを梱包して引き取りにきてもらい、元通所先へ面談の相談についてメールを書いた。会社員/被雇用者以外の形態で収入、生計、暮らしを立てていた経験のある方が居たらお話を伺いたい、という内容。いつかそういうのを選択肢として持っておくのもありかなと思ってのこと。きょうはこの二件をこなせたら達成と捉えていたので偉業。うまくできないことだってよくあるからね。というかきのうよりはましだけれど体調由来の不安感が強めで耐えるように過ごしていた。そのわりにはお決まりの反芻思考はあまりなくて、買いものへ出かける夕方の車内でいまじぶんはとりとめのないことを考えているなあ、呪詛で占有されていない思考って気ままに考えるものなのだなー、と思ったりしていた。不安を感じるときは原因を、体調/状況/対人、に切り分けて捉えてる。体調はそのまま寒さや疲れがたまっていないか、睡眠不足や栄養不足がないか、気分転換になる動きはあるか、など。状況は幅広くて、直近の身近なストレス、居場所や避難先があるかとか、生活していく上での不安要素がどこにあるかとか、幼少期の愛着まで含む。対人はそのままで、他者の揺らぎを受け取っていないかとか、境界線に迫られたかどうかとか、解釈をじぶんひとりで増幅させていないかとか。とりあえずで原因を切り分けられると不安への耐性が持てるから、漠然と不安を感じているときにはその根っこを把握できると個人的には楽。不安は種から芽生えて枝葉を伸ばすもので、具体的なことから漠然としていくもの。そうしたいつのまにか生えてきたよく分からない雑草については、それをよく眺め、観察し、触れて、口へ運びよく味わってみる。不安は基本的に身体の声なので、じぶんと呼べる者たち皆でその雑草を味わいしっかり分かち合うと、身体は安心して不安をすこし弛めてくれるみたいなんだよね。でもこんなことをする前に具体的で確実なケアを見つけておくほうが早い。じぶんの場合は睡眠と長湯。睡眠はとても強くて、これができると心身不調も翌朝にはとりあえず、にできると感じる。これがうまくできないまま過ごした長い年月のじぶん、よく生きのびたものだね……。寒さが身体に溜まってくる夕方は具合がよろしくなくなってくるのだけれど、二時間くらいの長湯は自覚できるくらいには気分を持ち上げてくれるんだよね。きょうは一行くらい書きつけたらおふとんへいって養生しようと思っていたのに、なんかとりとめもなく書くのだなー。そんなに書きたいのかと問うと、とくにそんなことはない感。ここに雑記を書きつけるのって、じぶんにとっては一日の終わりの禊ぎのようなところがあり、一日を通して思考に浮いたり溜まったりした灰汁や澱をすくい取る作業でもある。そうしてすっきりした気分でおふとんへ入ると眠りも気持ちよいというか。いま吉本隆明、糸井重里『悪人正機』(新潮文庫)を読んでいて、いまのじぶんには吸い上げるように届く本だと感じてる。仕事を二月で辞めたいと決めるにあたって、世間のこうあれという通念や周囲のよかれという提案を退け、じぶんの判断を優先したのだよね。そろそろそうしたことが必要な局面は出てくるだろうから、正しさや通念へのカウンターを示してくれるこの本はたいへんな滋養。いま思い返したのだけれど、こうしてただ乱雑な思考のうちをとりとめもなく書き出す快があるときって、具合はそんなによくないときのサインなのだった。明らかにそのようね。素直に眠っときなさい。おやすみ。
2026年2月3日(火)
体調がよくないので眠る。
2026年2月2日(月)
なにごともなく。モニターの件はメールして修理受付番号を発行してもらった。替えのモニターも届いたから、勢いでカスタマへ発送できたら。
2026年2月1日(日)
なにごともなく。デスクトップ機のモニターについている任意にON/OFFする電源ボタンが壊れたみたいで、そのようにできなくなった。OSや筐体本体と同期して動きはするから、前のように基板が壊れたとかではなく、たんに電源ボタン自体の故障かなといまはみてる。これ、よいお値段したちゃんとしたカラーマネジメントモニターなので(それでも安いほう)、商売してはいないけれど商売道具のようなものでもあるし、細かい故障でも早めに修理へ出しておこうか。ひとまずその場をしのぐ代えの安いモニターをAmazonでポチった。公式のカスタマに連絡するのがめんどいという気持ちは肯定しておくよ。めんどくさいね。だらだら過ごせるタイミングでたぶんましではある。夜はランプの灯りで過ごしているからモニターの電源切りたいのだけれど諸事情によりそうはいかず(スリープ/省電力モードやデフォルトのスクリーンセーバー設定がどこかで強制的に無効になってる)、ただ画面を黒くするだけのスクリーンセーバーを探してる。すごい、こういうのが探してもすぐに見つからない時代になってる。検索しただけでは手に入らないからいつぶりなのというくらい久しぶりに窓の杜へ飛んだ。ら、往時はあれほど隆盛を誇ったジャンルが十件くらいしか表示されないみたいで、さみしいことになっていた。もうしょうがないからPaintでただの黒い画像をつくり、それを全画面表示させておこう。今夜はもう考えるのやめ。タスクはあしたへ。話を聞いてもらえそうだからと求められるのはよいのだけれど、心身不調で寄りかかられるのは避けたいと思った。自他の反応を過剰に気にされると困惑するものね。わたしに関わりたい人間はわたしと良好な関係を保つために、あるていど具合がよい状態で触れてほしいな。
