2026年2月16日(月)

長湯に浸かった。立て直そうと思ったら具体的な対処とその順番があり、崩れた体調ではしんどい思考しかできないから、ひとまずフィジカルのメンテナンスから。揺らぎは前提で、戻り方を。

2026年2月14日(土)

不快と怒りを抱えて過ごした日。この怒りという感情はじぶんがなにを大切にし、なににNOを告げようとしているのか、どこに境界線があるべきと感じているのか、そういうのを教えてくれる感情なんだった。加えて、状況や身体、関係性に対してチューニングが必要だとかの合図も含む。いまこの時点ではなにか言葉にして書き出すタイミングではないなと思う。

2026年2月13日(金)

午前中は歯科へ。夕方はポストカードを納品。ちゃんとしようという内圧が高そうなひとたちというのは、善意ゆえにめんどいときがあると感じる。正しさやよかれという思い、こうあるべきといった観念って、分離や着脱が可能であるという前提なしにはひとに強いる抑圧もまた強いのだろうし、その影の投影も起きやすいのだろう。ただ、そこで起きているのは投影だけでなく、それを受け取るということも含む。じぶん、受け取りすぎ。境界線を引こうって決めたじゃん。解があるのはそっちだよ。影はこちらのなかにもあり、舵に触られそうな言動だとか執着/依存/支配/操作/搾取など、境界を含むそのへんの気配にむやみと鋭敏になっているし、誤検知もあるはず。こうした書いている内容から批判のにおいがするときは、物事の善し悪しというよりはコンディション由来で防衛的になっているサインなので、のんびりするがよいよ。ふと思う、あるひとが自分自身と和解していそうかどうかの別の切り口は、そのひとがポジティヴなフィードバックの構造に自ら身を置いていそうか、でもあるのでは。

2026年2月12日(木)

Sさんのギャラリーへ行こうかと思い立って昼過ぎに出かけた。途中で居酒屋レストランなるお店へ入り、定食を注文。魚介系に特化しているみたいだけれど、お昼はメニューを絞っているようだった。思えば白米のつくメニューを外食で頼むことってほとんどなかったなーと思う。それからギャラリーへ。折りよくSさんがいらして、とりあえずつくりたくてつくったはよいけれど値段をつけたら売れるのかなーと、という話をしながらポストカードをひととおり見ていただいた。お店の場所を借りるという形式になるとかなり安くて三割がお店の取り分、もうすこし県央に向かうと四割くらいが相場になってくるとのこと。Sさんはポストカードを日本画みたいだねと言い、このギャラリーともう一軒の喫茶兼ギャラリーで置いてみようと申し出てくださり、びっくり。渡りに船でぜひぜひと食いついた。とりあえずお試しで1枚入り包装x10種類/10種類入り1セットを各3組ずつ置いて様子見しつつとのことで、そこからは在庫がなくなれば納品というかたちで……と話は進んだ。その最初の納品にあたって、Sさんがタイミングよくいるかわからないため来るときは電話で連絡してとのことで、その場で連絡先を交換。仕事はどうと振られ、もうそろそろ辞めるつもりです、合わなくて……と話すと、接客はできる? うちの喫茶兼ギャラリーに来たら、というお誘いをいただいた。引きこもってると鈍っちゃうからね、とのこと。願ってもないことでこちらもぜひとお願いした。それからそちらの喫茶兼ギャラリーで展示やろうというお話や、春に協会へ入るならみんなに見てもらって考えようかとか。暖かくなってからじゃないと動きたくないからそれからだけどね、とのこと。あれこれ話してお礼を言い、ひとまずお暇した。Sさんにはこちらの疾患や取り巻く状況をざっくり打ち明けているから、仕事となるとそのへん障害の合理的配慮を絡めてお世話になるかも。Sさんのご好意はいろいろな経緯や背景もあって、それが人柄に滲んでいるのだな、と思う。一気に話が動いた……仕事を辞めても次のあてはあるというのはうれしい気もするし、安心ともとれるけれど、いまは回復が最優先なのでどう影響を感じるかちょっと保留かな、という感じ。仕事のあてがあって安心というのもおかしな話で、とりあえず回復に集中しようとか、じぶんは徹底的にじぶんのことだけにかまけていたい質でしょと思ったり、まあいろいろな意味でお気楽なのは確かだよ。流れに乗るつもりなら、当面はじぶんを無為で満たしてすきにさせてあげるのがよいよ。自己に対する主権回復の選択と宣言は結果的にいい感じになりそう。Sさんのご家族から、表情がすごくやわらかくて優しい人ですねと評をいただいたことを思い出す。逸脱への快が強いだけに不思議なことだよ……たぶんそうした要素は飼い慣らしているから、と思うと同時に、そんなふうにひとを見られるのはそのひとが自分自身と和解しているからかもしれない。あすは歯科の予約が午前にあるから、夜更かしはほどほどにしておやすみ。

2026年2月11日(水)

なにごともなく。のわりには懐かしいような苦しいような、愛おしい心地よい気分があって、それは一日じゅう続いた。春の兆しに反応してんのかもしんない。これまでまったく縁がなかったケツメイシの『さくら』、よいね。ほこりをかぶったデジイチを綺麗にして、ひどく久しぶりに弄ったり。電源を入れたら日付の設定から始まったのはうーんという感じ。直近の撮影日時は去年の六月くらい。んー。なんかあれだね、撮るのもいいかもしれない。話は変わり、ここに書きつけている雑記の動機って当初は、創作が手に付かなくなってもなにか書く行為や水準だけは維持したいとか、認知機能が低下しているから書かなかったらその日のことは即忘れるから、みたいなのがあったんだよね。いまとなってはそうした動機はわざわざ感じることなく、習慣として壁打ちを続けてる。それで、それで全てかなって問うと、こうしてきたことで窺えるものもあるのでは。たぶんほとんどの雑記はライフログ的な記述をしており、思い巡らす射程の遠さよりはその日のできごとに直接触れてる近さ。それは上記の動機としてだけではなくて、いまここにあることを感じる、いまここに集中する、どう揺らぎがあってもこの瞬間へと戻ってくるという、安定を求めてほぼ無意識に採ってきたじぶんの認識スタイルそのもの、あるいはその反映なのでは。いまを感じるというのはおそらく瞑想の基本で、そのつもりがなくともそうした状態を取ると安定が得られることは体感や心地としてあるはずで、降った雨がやがては流れをつくるように自然な成り行きなのかもね。それをしていたらおまけのようについてきたものがたぶんひとつあり、仮定やたらればで存在し得ない過去の選択肢の先を描いて悩むことがそんなにない、と思う。あのときこうすればよかったではなく、それがそのときできたことだった、という。現実として確定しているのは日々の小さなひとつひとつの選択の連続で、それは現実だからどんなに小さくてもどんな仮定より現実で、そこに納得ができると強い。いまここ、という認識のしかたは焦点がとても狭いぶん、長い射程の想定より小さな選択と相性がよいから、やはり自然とそうなる気がする。後悔しないという表現はしないけれど、後悔で苦しんでいる体感はいまはそんなにないかなあと思えるのは、必要に迫られたひとは成り行きのようにそうした認識のしかたをするようになるから、かも。横になるとき身体の左右どちらを下にするかで過ごしやすさが変わってくるみたいな自然と取る姿勢のそれ。オチなし。なぜストーブの灯油は夜切れるのか。いや、灯油が切れたとかのんびり思えるのは寒さが和らぎつつあるときのことなので、これも春の兆しなのかもしれない。

2026年2月10日(火)

タイ料理の居酒屋が昼にも店を開いているのをGoogleマップで見つけ、昼ごはんはそこへ行ってみることに。……外食という線でみるとじぶんのなにかが静かに変わってる。居酒屋というのも思えばこれまで縁がなかったのでは。内側のノリでできてるように見えてハードルが高かったのだった。行ってみると郊外の民家というか農家をそのままお店にしたような、靴を脱いで和室に上がるかたち。すごい、バンコクのあの特有のにおいがする。ソムタム・プー・プラーラー(パパイヤと川ガニのサラダ)とパッペップラードゥ(ナマズのカレー炒め、ココナッツミルク入り)を注文。女将さんに、前者は臭いがきついから海老でつくることもできるよと訊かれ、迷わずきついほうでと答えた。ナマズはいま入荷してないけれど代わりにティラピアでならつくれるとのことで、それもそうしていただいた。辛さは? 辛いのでお願いします。ほんとに辛いよ? だいじょうぶ。など。ほかには先客が二人ばかり、思いのほか気楽な雰囲気でこちらもすぐのんびりできた。そして運ばれてきた二皿はボリュームあるなあという量。箸をつけてすぐ、この辛さだー、といううれしさを感じて、そこからは辛さと汗に圧倒されていた。二皿とも唐辛子をもりもり使っていて心底辛い。ソムタムのほうはしょっぱく、確かに発酵した川ガニは臭うという表現で、でもこれ納豆やたくあんと同じ枠で白米に合うタイプのうま味としょっぱさだなーとか考えていた。運んできてくれた女将さんが料理を前に、ごはんは……(この量なら)いらないか、とひとりで合点していたのは、これはそういう併せの食べ方をするからぽい。ティラピアを揚げてカレー炒めにしたもののほうは、これあの路地で40バーツで食べた魚だ、と思いだした。はっきりと旅先で味わったエスニックなにおいや味がする。特有の甘い香りはローリエとココナッツミルク、あとなんのスパイスだろ。身体の水分が辛さで顔から押し出されるくらいの辛さを感じながら、旅先の記憶をうれしく思い返していた。魚があと一切れ残ってるなーくらいの思いになってきたころ、女将さんとすこし雑談。タイ出身らしく、こちらへ来てもう27年になるそう。いまはここにお店を構えているけれど、その前には市内や県内のほかの場所でもお店を開かれていた経験があるのだとか。じぶんよりこのあたりのことに通じてらして、お互い地元のローカルな表現でああ、あのへんね、みたいに会話。ここの料理は日本人向けのアレンジはいっさいしておらず本国の味で出してると伺い、とても納得したのだった。料理は持ち帰りにもできるよとのことで食べきれないぶんをそうしてもらったら、ビニール袋に入れるあのスタイルで渡されて、それもなんかうれしかったなー。知らない国を訪れてみるというのはそれだけで完結する体験ではなくて、その異邦の気配が身体や意識に宿り、息づいて、ふとしたときにこうして顔を出すという、生の更新なのかもしれない。このお店へくる前は数度通ったことのあるカレー店とですこし迷ったのだけれど、こうしたとき知らないほうを選ぶことにしていてよかった。それから喫茶店で本を読むことにして、もっか相談員さん経由でやりとりを行っていただいているお店に向かい、そこでしばらく過ごした。下見だよね。元通所先に通いはじめる前はしばしばそのあたりを出入りしていたものの、もし商品を置いていただくとしたらという視点になると、細部はよく見ていなかったと思った。チラシや案内がたくさん並んでいる。知り合いになったギャラリーさんのとこのカレンダーが商品として置かれていた。もしポストカードを置くとしたらどこにとか、それらと店内の雰囲気は合致するかとか、色彩は壁の白、木の調度品のダークブラウン、白熱電球の暖かくてやわらかい控えめな照明、とか。帰り際、CDアルバムがいくつか並んでいたのでなんとなくひとつ手に取りお会計へ。以前ここでライブをされた方々のですねとレジの方から伺い、そうした置き方はあるんだ……と思ったり。うちへ帰ってきてからは仔猫の相手や夕餉、あとはのんびり。仔猫の相手をするにあたり、釣り竿と糸の先にもさもさが付いているおもちゃでじゃらしているのだけれど、そのもさもさが確実に戻ってくる場所、こちらの足もとで構えるようになった。へんな賢さがついてきた……。なんかきょうはタイ料理に触発されたのか、とみにとりとめもなく書いている気がする。文章を弄ぶのではなく、単に出力が多いときって、それなりにフィジカルが元気というかメンタルは一定の安定を保てているときのしるしなのだよね。このフィジカルの元気を消費しすぎないことだけ押さえておくとよい感じ。もうあとはゆっくりしよう。

追記:女将さんとのやりとりを振り返って思う。もしなにか望む仕事が浮かんで個人でしたくなったときはね、もう迷う余地はないんじゃないの。個人として商売している方たちと仲良くなっておくんだよ。そうしてたくさん話す。あれこれ質問できるくらいお得意様、顔なじみの客になれたら、知恵や経験も分けてもらえる。仲良くなりたかったら? それはじぶんが致命的に下手な分野だけれど、基本はひんぱんに顔を出すこと。そうしていたら自ずと話題や接点、関心は立ちあがるよ。挨拶しとこくらいのノリとペースで会いに行く。そんなノリを持てる相手に出会うには試行を増やす。いまは新しい扉を小さく開く体験がスムーズなので、このまま好きにお店を開拓してればそれが試行そのもの。歓迎されているかそうでないかは接してみればなんとなくわかるものだし、とくにじぶんはその手の反応が顕著に分かれやすい質だろうから、こうしたときには都合がよいはず。もししたいことができたときは、実践してうまくいっている人たちと仲良くなるのが基本なんだよ。なんだか学生でいたころの感覚が微弱にある。やっとそこまで立ち戻ってきたという感じ。こうしたムーブは当時はやだなと思っていた気がするし、いまも相変わらずではあるけれどね。積極的って、このくらいのことなんだよ。

2026年2月9日(月)

NPOの担当さんから電話があり、喫茶店の責任者の方とやりとりした結果、こちらがその方に営業をかけるのはOKという方向で話が進んでいることを伺った。忙しいところだっただろうし、都合のよい申し出なのに、ここまでしてくださりすでに感謝。その営業となる日はまた後日にとのこと。そのあとふらっと回るお寿司を食べに出かけた。外食についての身軽さはけっこう身についてきている感じ。長いこと臥せっているとそのへん縁がなくなることもあり臆しがちなので、扉を開く経験が数に乗るのは好循環。生きのびるために一度は世界を閉ざしたわけだけれど、そこからもう一度開いていくにあたり、じぶんはその経路だけで三通りの生き方をしてる。それ以外の節目ごとにも関係性や像が断絶しているのもあり、じぶんの同一性ってどこで保たれているんだろ、おそらくこの身体そのものに宿っているのだろうけれど、よくわからなくて謎。お店を出たあとは微妙に不安感が顔を覗かせていたため、どこか喫茶店で本を読もうという当初の予定はおやすみにしてうちへ帰り、のんびり。早めに長湯に浸かったものの気分はゆらゆらしており、夜はランプの灯りの前でぬいたちと過ごしていた。ふと思ったのは退職することを決定した件で、退職する/勧められたように我慢してそこにいる、という判断の分かれ目に正解があったのではなく、感じた怒りをなにひとつ抑圧することなく大切に扱い、それを守るために書類を作り手順を踏んだ、それ自体が意味のあるプロセスだったのでは。愛着や感情の課題を感じつつも、ここ幾年かは二次感情であろう怒りばかりが油田みたいに湧いており、今冬はそれをさほどは感じない。今回の件では怒りという感情が抑圧されずに表へ出られた、出ても否定されずに守ってもらえた、自我が外界との手続きや判断とその結果の責任も引き受けたことで、ふざけるなNOだとはっきり意思表示できた。怒りの側からすれば自由に感じていいし表出していいし突きつけていいし、対象からはじぶん自身が守ってくれる、そう信じられるようになって安心できたのでは。安心できた怒りは過剰さを潜めるのかもしれない。眠くなってきたからざっくり書くと、長く抑圧されてきた感情たちの二次感情として湧いていた怒りが自由を得、自我を信頼してくれるようになった、そうしたことがこの退職のごたごたで起きたことの意味だったのでは。この怒りという感情とはよい関係になれそうな気がする。ねむたい。不安はいつのまにか消えていた。変なタイミングで石油ストーブの灯油が切れてしまった。明朝汲むのも寒いし、これしておふとんへ。

2026年2月6日(金)

定期通院先へ。意欲についてあれこれ訊く。フランス料理を食べたり東京へ買いものに行ったり、優雅に生活しているように見えますよ、との言。できないと思っているところへの評価が強いけれど、外食や買いものなどそうしたことをできている点も含めて事実をまず正しく評価しないと、その上に思考を積み上げてもうまくいかないですから、ということだった。できないというよりは気持ちと実行にずれがある、そのずれをどう見るか、ということもあるでしょうとのこと。そしてやはり、運動は基本にして王道らしい。じぶんにとって大事なとこだからと粘って話を伺い退室したら、待合室が混んでいた。とても久しぶりのことだけれど今回は申し訳ないという気持ちは薄め。じぶんも誰かを許せば済むこと。薬局で処方を受け取ってから市役所に向かい、期日前投票を済ませた。建物から出たところで見知らぬご婦人から「期日前投票の会場ってここですか」と訊かれ、入って突き当たりへ行けば案内の方がいます、その投票券があればじゅうぶんです、などやりとり。別れ際に行ってらっしゃいとお伝えした。なんとなくうれしいのは不思議な感じ。それからイタリア料理のチェーン店でお昼のピザなど食べたあと、初めてのカラオケ店へ入って計二時間歌っていた。初めてだしねとひとまず一時間のつもりが延長してのこと。通りすがりの女子高生二人にちょっと気を遣われてお礼はしたものの、若干の申し訳なさ。ここのDAMは新しめだったし、料金も安くてよいね。それからホームセンターやスーパーを回って帰途。うちでは仔猫の相手をしたり、長湯したり夕餉を食んだり本を読んだり。元通所先から返信がきて、被雇用者以外としての経験や知識を持つスタッフがいないために助言ができない、とのこと。じぶんは就労支援の枠外へ出たということになるね。そこからしばらく気持ちに揺らぎはあったものの、今夜はおとといやきのうとはうって変わり、凪の気持ちで本を読んだりインセンスを焚いたりして過ごしてる。夜が居心地よいのは久しぶり。一日のうちにけっこういろんなことをした日だったし、これはじぶんが想定/期待しているのとは別の側面で意欲が顔を覗かせている、と解釈して、できていることを増やしていくというアプローチもありなのだろな。趣味や生活が期待通りにできていないように見えて、外食やカラオケでは新しい扉を平気で開いてる。夜風のざわめきを聞いたとき、季節を感じることに出口がありそうに思った。もしかしたらそれは逆で、現状から脱したときには季節への感受性も回復している、ということかもしれないけれど。関係ないけれど、いろいろ厳しそうな今回の選挙、正しさからはそっと距離を置こうと感じた。もちろんいかがわしい真似で力をつけているあれこれへの拒絶はあるけれど。こうした局面で戦い方としての正しさがカウンターとして絶対になっていくことへの、一歩だけ引いておく距離。投票へ行くこと、それを表明することの正しさみたいなものに、ちょっと今回は違う気がしたから、それはこの場末に書いて留めておく。旗幟鮮明にしてアカウントで表明せよ、みたいな気配にそれは知らないよと思っているだけかもしれない。