2026年2月9日(月)

NPOの担当さんから電話があり、喫茶店の責任者の方とやりとりした結果、こちらがその方に営業をかけるのはOKという方向で話が進んでいることを伺った。忙しいところだっただろうし、都合のよい申し出なのに、ここまでしてくださりすでに感謝。その営業となる日はまた後日にとのこと。そのあとふらっと回るお寿司を食べに出かけた。外食についての身軽さはけっこう身についてきている感じ。長いこと臥せっているとそのへん縁がなくなることもあり臆しがちなので、扉を開く経験が数に乗るのは好循環。生きのびるために一度は世界を閉ざしたわけだけれど、そこからもう一度開いていくにあたり、じぶんはその経路だけで三通りの生き方をしてる。節目ごとに関係性や像が断絶しているのもあり、じぶんの同一性ってどこで保たれているんだろ、よくわからなくて謎。お店を出たあとは微妙に不安感が顔を覗かせていたため、どこか喫茶店で本を読もうという当初の予定はおやすみにしてうちへ帰り、のんびり。早めに長湯に浸かったものの気分はゆらゆらしており、夜はランプの灯りの前でぬいたちと過ごしていた。ふと思ったのは退職することを決定した件で、退職する/勧められたように我慢してそこにいる、という判断の分かれ目に正解があったのではなく、感じた怒りをなにひとつ抑圧することなく大切に扱い、それを守るために書類を作り手順を踏んだ、それ自体が意味のあるプロセスだったのでは。愛着や感情の課題を感じつつも、ここ幾年かは二次感情であろう怒りばかりが油田みたいに湧いており、今冬はそれをさほどは感じない。今回の件では怒りという感情が抑圧されずに表へ出られた、出ても守ってもらえた、自我が外界との手続きや判断とその結果の責任も引き受けたことで、ふざけるなNOだとはっきり意思表示できた。怒りの側からすれば自由に感じていいし表出していいし突きつけていいし、対象からはじぶん自身が守ってくれる、そう信じられるようになって安心できたのでは。安心できると怒りは過剰さを潜めるのかもしれない。眠くなってきたからざっくり書くと、長く抑圧されてきた感情たちの二次感情として湧いていた怒りが自由を得、自我を信頼してくれるようになった、そうしたことがこの退職のごたごたで起きたことの意味だったのでは。この怒りという感情とはよい関係になれそうな気がする。ねむたい。不安はいつのまにか消えていた。変なタイミングで石油ストーブの灯油が切れてしまった。明朝汲むのも寒いし、これしておふとんへ。

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