2026年2月5日(木)

体調は戻ってひと安心。『悪人正機』を読み終えてハ・ワン『あやうく一生懸命生きるところだった』(岡崎暢子訳、ダイヤモンド社)を読みはじめた。日が暮れたころ、なんとなくごはんを食べに行こうかという気分になり、タイ料理のお店でごはんを食べた。うん、本場の味を知ってるってこういうことかーという側面もあれば、そこのトムヤムクンは間違いなく美味しく、時間が早かったのかひとりで気楽だったこともあり、旅の記憶を振り返ったりしていた。多層化されたじぶんたちが同席している、じぶんにとっての現実の風景にほほ笑んだり。いまこれを書きながら思うのは、きのうの不安はやはりかなりの部分が体調由来の気分の揺らぎだったという手応えと、それを把握して圧倒されずにやり過ごそうとするじぶんのささやかな長所。じぶんで褒めよう、えらい。突然別件になるけれど、目にとまる誰かに対して、このひとは自分自身と和解していそうかどうか、という視点がさいきんじぶんのうちに芽生えた感。それはとりもなおさずじぶんはどれくらいそうなのだろうかという問いの延長で、このところのテーマなのだな。そんなものがなにになると言えば全てだと言ってよいものだった。おそらくじぶんの疲れやすさにも影響があるはず。いくつか本を読んでみて思う、この和解と便宜上呼ぶプロセスは自分自身のことなのに、協力的な他者がいてこそ功奏する。元通所先でじぶんが獲得したのは仕事についての理解や一連の経験よりも、手を差し伸べてくれる方たちの存在そのものが安全基地となってくれたという肌感なのでは。仕事のあれこれはじつはオプションで、そこでしていたのは愛着のケアだったのでは。他者と安全の関係を構築するという回り道を経由することで自己と和解できるという、一見よくわからないけれど子どもの成長という線で見ると明らかな手順は、きっと大人になってから踏むのは状況から見て大変なのだろね。また少し別件になるけれど、就労支援の現場ではよく社会性が大切ということが言われており、確かにいろいろな意味で痛感はしたものの、それってきちんと切り分けないと怖いと思った。意地悪く言うと、なんら公正でもないいびつな世間の声を内面化して、その声につねに自己をジャッジさせる、そうやって社会の一部となる、それが社会性と呼ばれているものの一側面だと個人的には解釈してる。だからそれは必要に応じて着脱自在なペルソナ扱いで別によいはずなんだよね。自己判断で外した際にそれでは社会性がないと口を揃えて言われたの、それはそれで根に持ってるんだな……。なんでこんなことを書くんだろうと思うと、それはじぶんの関心でもあり、だから『悪人正機』や『あやうく一生懸命生きるところだった』みたいな本を読んでいる途中でなおさらなのだな、という。ところで、新車のカーゴはまだ各部のフィルムもめんどくさくて剥がさず、夏タイヤも積んだまま乗っているのだけれど、そのへん手入れして敷き布団と掛け布団を買ってきて積めば、ひとまず車中泊仕様になるんだねと思った。いまのところ思うだけ。自覚が薄いだけで、いまかなりな自由と行動圏を手にしているのだろな。なにかするのは別に暖かくなってからでもよいよ。

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