なにごともなく。のわりには懐かしいような苦しいような、愛おしい心地よい気分があって、それは一日じゅう続いた。春の兆しに反応してんのかもしんない。これまでまったく縁がなかったケツメイシの『さくら』、よいね。ほこりをかぶったデジイチを綺麗にして、ひどく久しぶりに弄ったり。電源を入れたら日付の設定から始まったのはうーんという感じ。直近の撮影日時は去年の六月くらい。んー。なんかあれだね、撮るのもいいかもしれない。話は変わり、ここに書きつけている雑記の動機って当初は、創作が手に付かなくなってもなにか書く行為や水準だけは維持したいとか、認知機能が低下しているから書かなかったらその日のことは即忘れるから、みたいなのがあったんだよね。いまとなってはそうした動機はわざわざ感じることなく、習慣として壁打ちを続けてる。それで、それで全てかなって問うと、こうしてきたことで窺えるものもあるのでは。たぶんほとんどの雑記はライフログ的な記述をしており、思い巡らす射程の遠さよりはその日のできごとに直接触れてる近さ。それは上記の動機としてだけではなくて、いまここにあることを感じる、いまここに集中する、どう揺らぎがあってもこの瞬間へと戻ってくるという、安定を求めてほぼ無意識に採ってきたじぶんの認識スタイルそのもの、あるいはその反映なのでは。いまを感じるというのはおそらく瞑想の基本で、そのつもりがなくともそうした状態を取ると安定が得られることは体感や心地としてあるはずで、降った雨がやがては流れをつくるように自然な成り行きなのかもね。それをしていたらおまけのようについてきたものがたぶんひとつあり、仮定やたらればで存在し得ない過去の選択肢の先を描いて悩むことがそんなにない、と思う。あのときこうすればよかったではなく、それがそのときできたことだった、という。現実として確定しているのは日々の小さなひとつひとつの選択の連続で、それは現実だからどんなに小さくてもどんな仮定より現実で、そこに納得ができると強い。いまここ、という認識のしかたは焦点がとても狭いぶん、長い射程の想定より小さな選択と相性がよいから、やはり自然とそうなる気がする。後悔しないという表現はしないけれど、後悔で苦しんでいる体感はいまはそんなにないかなあと思えるのは、必要に迫られたひとは成り行きのようにそうした認識のしかたをするようになるから、かも。横になるとき身体の左右どちらを下にするかで過ごしやすさが変わってくるみたいな自然と取る姿勢のそれ。オチなし。なぜストーブの灯油は夜切れるのか。いや、灯油が切れたとかのんびり思えるのは寒さが和らぎつつあるときのことなので、これも春の兆しなのかもしれない。
