2025年11月29日(土)

のんびり。仔猫は去勢手術をしたのでケージに入ってもらっているのだけれど、遊びたくて出してと訴えるのだよね。かわいそうだけれど大運動会をされると傷に響くかもしれないし、術後につき安静にしてもらう。検査したらおなかに虫がいるとのことで、虫下しをしばらく与えることに。

2025年11月28日(金)

定期通院先へ。主治医と傷からの回復についてやりとりをしてあとで振り返ってみると、じぶんでは自覚できていないけれど回復への姿勢が前のめりなのかなというか、頑張りすぎ/力みすぎているよ、もっと楽にしてよいのでは、というニュアンスを仰っていたなと思う。おそらく、あなたのように回復できるケースはそこまで多くないという意味も込めて、ここまで来られたならひとまず満足してみては(そこから自己受容を)、という趣旨のことも。たぶんね、じぶんは理想の高さに自覚がないし、そのことに頑張っているという自覚もない。主観ではそうするほかない、それをするという認識なんだよね。たいていの場合は周りからのほうが状況が見えているというのはあるのだけれど、無意識に頑張っちゃうじぶんも包摂して受け入れるほうがいまはよいかな。そういうのも業や磁場、物語の強度として生きたってよいのでは? 考えとしてはいろいろ言えるところだけれど、こういうのは日々の暮らしのなかで常に調整されるものなので、生活を大切にという着地点。そしてふと思う、これだけ流感が大流行しているなかカラオケで歌っていたらアホかもね。ほんとにいま我に返った感じで、まあでもよくない? みたいな。もしかして全体的に、間違えたってよくないかなというところへきているのでは。いや、他からみれば間違いやズレな要素でじぶんが大部分を構成されているというのはあり、今さら感。こんなふうに出口のない思考を弄んでいるときって微妙に快があるけれど眠ったほうがよいしるしであり、そのように。最近のじぶんの文章から変に自信を感じることがあり、これはどういうことなのかと判断を保留してる。抑圧へ向かうのも気持ち悪いけれど、暴走するのもねという。

2025年11月27日(木)

のんびり。坂本龍一の『Merry Christmas, Mr. Lawrence』を聴きながら、死にゆく者のこころに種を播くことの祈りを思って泣いていた。映画ラストのビートたけしの破顔、あれはいろいろ言われるようだけれど、じぶんはすごくすきだな。

2025年11月26日(水)

お仕事の帰りにカラオケを二時間。これくらいにしとこと思っても、時間がくるともっと歌いたくなるんだよね。楽しさの余韻もより長く続くようになり、うちへ帰ってきてもそれを感じてた。ボーカルの性別関係なくあれこれ歌ってみるのがたのしい。じぶんが心地よく感じるテンポやノリって基本は90~2000年代のそれがベースなのか、それは既知ゆえのバイアスで探索を続けたら現在と合流するのだろうか。当時は邦楽には(音楽にも)関心がなかったのに、時代性は身体にしっかり刻まれているみたいだ。Googleマップのクチコミの件でカスタマーサポートに連絡を入れると、ガイドラインに沿って編集し直せば表示される可能性がある、ということを教えてもらった。引っかかっているのはそこということぽい。知らない国の方とリアルタイムの自動翻訳でやりとりしているの、すごいことよね。それでChatGPTに当該のガイドラインへのリンクとクチコミ本文を読んでもらい、どこが抵触していそうか理由を推測してもらった。「非常に丁寧で誠実だけれど、機械判定の地雷ポイントを多数踏んでしまっているのも事実」みたいに言われてわらう。具体的な医療情報はだめ、褒めすぎるとだめ、特定の具体性はだめ、誘導のストーリーにみえるのはだめなど、むしろ投稿されてて読めるクチコミってよくこれだけの条件を掻い潜ってるねと思う。替えの文章も提示されたけれど、原因は見えたからあとでじぶんでクチコミを編集し直すことにする。

2025年11月25日(火)

朝、シルバー人材の方ふたりがきて、草刈りや枯れたものの処分をしてくれた。コンビニへいって暖かい飲みものと飴やせんべいを買い、差し入れに。芝刈りや落ち葉集めもしてくださり、雑草を捨てるのに使っていた穴がうずたかい山に変わった。これはこれで堆肥にするなり工夫しないと持てあましそう。正午ごろには作業は終わり、庭は見た感じかなりすっきりした。お二人にお礼を言い、本部のほうの方とやりとりし、振り込みの書類が後ほど郵送されてくることを伺った。そのあとはなんとなくおふとんの中でまどろむうち、夜。こないだ書いたクチコミがスパム扱いされたのか非表示になっており、明らかに誤判定で不服なのでのちほどGoogleのサポート窓口へ連絡するつもり。先のお店で買ったフィンガーサラミ、バニラかコーヒーのような甘い香りがほのかにあり、それが奥行きとなっていておいしい。なんか疲れるのはそういう体調の波として、あす行ったらしばらくお休みだから今宵は早めにねむろう。振り返ってみると今月は人に会うスケジュールがわりと多かったよ。よくやってる。

2025年11月24日(月)

美術館の駐車場を手入れしていると家族連れらしい幾名ものお客さんがきて、集合写真を撮ってほしいと頼まれた。映りのよい場所へご案内してコンデジで二枚ほど。満足していただけて、こんなときには写真慣れしていてよかったと思う。喫煙所を訊ねられ、ありませんがここで作業してますから吸い殻はこちらで始末しますよ、と答えると、親子ふたりがそのあたりでしばらくのんびりしていた。娘さんの持ってこられた吸い殻に見覚えがあってアークロイヤルですかと訊ねるとそうで、しばらくその話に。じぶんもかつてアークのワイルドカードを喫っていたから、アーク飲みには親近感というか仲間意識があるんだよね。うれしかったな。仕事帰りにギャラリーへ寄ると新たな展示が行われていた。そちらをのんびり眺めてから、ギャラリーのご主人に作家協会へ入会したいが事務局と連絡がつかない旨をお話しした。担当の方が営まれているお店を教えていただく。すぐ近場の手作りソーセージやハムなどのお店だった。仕事帰りにいつでも立ち寄りなさい、と声をかけていただいた。そしてお店へ向かい、そこで事務局担当のKさんにご挨拶して説明をいただき、来春4月あたりにある総会のタイミングでお試し入会という流れに。ルールでは会員二名からの推薦が必要とのことだったのだけれど、あなたの作品は協会展で居合わせたいろいろなひとが興味を持って見ましたからだいじょうぶでしょう、とのこと。そのあとKさんとその娘さんのアトリエを拝見したり、庭を案内していただいたり。高原らしく美しい林が広がるところだった。お店のソーセージやサラミをいくつか購入し、帰途。うん、なんというか、流れに乗っている感じがする。どこへ向かうか分からないけれど、たぶん知らないところへ。美術館とご縁があったことで偶然そのギャラリーを知り、そこを起点に作家さんがたのネットワークへ入れそうなわけなんだよね。そしてきょう拠点もできた。なんだか思い出すのは、病で途切れた大学のサークルや社会人サークルのこと。知らない人々が集まる場にじぶんも加わるのってそれ以来のようで、人生第二部で伏線回収のような思いがけない変奏を味わっている感じ。この冬は回復を大事にしよう。ことしがそうだったように、春になったらまたいろいろ動き出すはず。

2025年11月23日(日)

記憶への訪問。もうそこに居なくていいよ、じぶんたちがやっと来たよ、という言葉が出た。思い出せるだけの断片をひととおり思い出し、それらに触れる痛みはかなり、なくなったように感じる。うさぎの子の痛みの取り出しはいったん一段落のように思う。一気に記憶の棚卸しをしたわけで、このたび得られた安心/安全の感覚が身体に馴染むよう、しばらくのんびりとそれらを味わうがよい。ゆとりがあったので元通所先のGoogleマップのレビューを書いた。もしよかったらというふうに半年前に触れられてはいたものの、上述の通り書くゆとりがここへ来てやっとできた。丁寧に書いたつもりだけれど、こうしたクチコミ的なものってふだんいっさい書かないから慣れないね……。手持ちのGoogleアカウントにレビューをつけるような運用のものがなかったためそれ用にアカウントを新しく取った。ささやかなお礼ってことでいいんじゃない? きょうは地味に偉業をふたつ遂げたから、おやすみ。

2025年11月22日(土)

なにごともなかりし日。記憶の振り返りについて、明確に痛みがあったところを再訪。すこし楽になったような。この繰り返しがなにかしら作用するはず。

2025年11月21日(金)

シルバー人材の草刈り担当の方から費用と日程の連絡が入った。思ったより早く庭にきてもらえる。お昼はふと思い立ち、中華料理店でトムヤムのフォーと酸梅湯を食べる。ああこれ美味しいなーと思いつつ、フォーの1,200円に対して、バンコクの食堂で食べたもっとシンプルなのがたしか40バーツだったことを雑念みたいに思い出していた。二百円弱。日本食、たとえばおにぎりが海外では高くつくみたいな話もこういうことなのかなと思う。こういうこと、のいい加減な使いかた。酸梅湯は初めての飲みもので、燻製にした梅と薬草数種を煮出して飲みやすくしたもの、だとか。奥行きと滋味があるなあという感じ。ちらと思う、閉じた世界にいたのによくここまで気楽に飲食店へ入って知らないものばかり求めるようになったね。じぶん的にはすごい変化。そのあと近場のカラオケ店で二時間歌っていた。やっと分かってきたこととして、お店や部屋ごとに入っている機種というのが違い、さらに個別の機種がカバーしている範囲というのもまちまち、なのだな。おそらく最初だけJOYSOUNDに触れてそのあとはずっとDAMに当たってる。いまはボーカルでガイドしてもらうほうが歌いやすくて楽しいのだけれど、ここがなんかまちまち。ほかのお店で一度「最新機種が入っているお部屋へご案内しますね」と言われたことがあり、そのときはたしかにそのあたりの選択肢が多かったような。タッチパネルの操作端末がデンモクっていうの、いま知った……。さらに検索して、端末を選びたいなら入店の際に伝えればよいそう。うん、まあ、伝えてなかったよね。二時間と大きめに時間を取ってももっと歌いたいという感じになる。思うのは、音楽は聴くもののように思っていたら歌うという需要があったのだなということ、それから聴く好みとは別軸で歌いやすいor歌っていて気持ちのよい歌というのがあり、そこは基本的にヒット曲が目安になる感なのだけれど、そうした歌探しをするのも楽しいのでは、ということ。そういえば持ち歌という言い回しを聞いたことがあるけれどこれだー。幾年か前にやっと邦楽に興味を持って過去のベストアルバムを漁りだした経緯があり、それがこんなところへ通じるなんて不思議。カラオケに踏み出した最初の目的は、じぶんの喋り方の課題や迷走神経系や胸郭にアプローチするなら歌うとよいのでは、というところからなのだけれど、すでに楽しいという軌道に乗ったからそこは自ずとよい感じになっていくと思う。馴染みがなかったことに対して楽しさの軌道に乗る、ということの地味なすごさ、そこに広がる世界へ開かれることを思う。ここ何年かで世界史や哲学に初めて触れてみたときのあれに似てる。なにもなかったところに急に大きな骨格が広がるときの抜け感、初心者だけの蜜。

2025年11月20日(木)

朝、シルバー人材の方と打ち合わせをした。草刈りと除草は人員が別々だそうで、除草についてはまたのちほど。庭を案内していたら草に降りた霜が綺麗だった。昼にはカラオケでいつもより時間を増やして一時間半歌う。やっぱり楽しくて、もっと時間を大きく取っても楽しめるのでは、という感じ。そのあと元通所先にて書類のやりとりをしたり、現況の共有など。うちへ帰ってきて、なんとはなしに過ごすうちいま日付が変わった。人と会って話すのってやはり疲れるようで、きょうはもうおふとんへ行くがよい。思ったこととして、食事って満たされるようでいて疲れることでもあるのだな。内臓を働かせるのだから当たり前なのだった。夕餉のあと、一日の終わりにこころの内側へ耳をそばだてたいなら、疲れない食事という発想もあったほうがよいのでは。いまはおいしいという快が大きいので考えどころ。