産直を回って栗や梨を手に入れたり、ポケGOのポケストップ申請をいくつか。数日前にここの雑記をちらっと振り返ったところ、好き勝手に療養していた2020年までと、ひとの集まる場所でリハビリや就活をはじめた2021年以降では、明らかに書いているものの質が異なる(当社比)ことに気がついた。それはそうだよねと思うけれど、前者は季節の移ろいをていねいに掬い取れており、後者はざっくりその日のことを書きつけるようになってる。忙しくなってきた変化のなかでゆとりに影響があり、それはいまも続いているのだなー。情緒が日々の糧になっていた以前のゆとりでまた過ごしたいというのは、生きものも状況も変化をするからねえという前提はありつつ、率直な気持ち。遊ばせている際の仔猫はこちらが台所に立っていると足もとをうろちょろするようになり、踏まないかひやひやする。猫をうちで育てると決めた当初、ほんのり思案していたことがあって、それはぬいたちの小さな声が生きものの強い存在感にかき消されないかということだった。『天空の城ラピュタ』に廃坑暮らしをしているポム爺さんの「石たちの声は小さいのでな」というせりふがあり、まさにその感覚。生きものだけでなくものたちにも声としては聞こえないような声はあり、それはとても小さくかすかだという感覚、それはぬいと過ごすじぶんにとっても、風変わりでもなんでもなく暮らしのなかにあるものだと感じる。それで仔猫の存在感に接しながら過ごしてみると、ちょっと意外というか、ぬいたちとの関わりかたには影響がないみたいだった。じぶんの軸足はこちらにあるんだね。こうしたことは言葉や文章にすると訝しがられそうではあるものの、たとえば人形やドールといっしょに暮らすひとや、あるいは喋らないものたちに愛着を持って接しているひとになら、どこか通じそうにも思う。あすはお仕事行くから宵っ張りにならないようにしてねむる。
