仔猫の相手をしつつのんびりごろごろ。夜半のいまふと思う、壁に飾っているAIアーティストの絵についてのこと。夜の街明かりを見下ろしている黒猫の絵で、飾っている壁によく馴染むし、これはこれでよいねと思ったのだった。この絵を飾ってみたのは、じぶんがAI生成画像をどう受容するのか知りたかったことに加えて、写真技術が登場した当時のひとたちの写真への感じかたも知りたかった、という動機もある。それで現時点の感想としては、上記のこれはこれでよい、という内容。それは、産業革命以前のモノが基本は手製の一点ものだったところから、それ以降のモノはどんどん大量生産の既製品に移り変わり、それで現代の生活は違和感なく回っている、当たり前となっているその感覚とおなじように思う。たとえばいまのご家庭の食器って工場で作られたかたちの綺麗なものばかりだよね。それでここからが思うことなのだけれど、上のAIアーティストの絵やいっしょに並べているほかの作家の絵を眺めていて感じるのは、そこに制作者の存在を感じるかどうか。たぶんね、いままではなにかを作るのは当然のように人間だったから、そんな存在の有無なんて気にしなかったんだ。そこにAI生成画像を並べてみると、じぶんは思っていた以上に、作品というものに作り手の存在を探してる。これはただの物体やデータではなくて誰かがなにかしらの思いを込めてつくりだしたもの、その思いを辿るところまで含めての作品なんだと思う。きっとこれからはAIに生成されたものが生活や日常を埋め尽くしていくし、それで違和感もなく回っていくのだろう。現状の身の回りにあるものがどこを取っても工業製品なように。そこから思うこと。先の例えでは食器なんてニトリで買ってくるようなもので間に合ってるみたいに書いたけれど、生活を大切にするひと、食事をより味わいたいひとであれば、窯元や陶芸家が手ずからつくりだす、そういう器を求めたりもする。かたちの整った均一な工業製品よりは不完全かもしれないし、再現性のない一点もので値段は高いし、手に入れようとすると足を運ぶ労力や審美眼を養う必要があったりもする。それでもひとのつくったものを取り入れることには潤いと、おそらくはより大きな潮流に抵抗する意思がある。こうしたことが、AI以降の世の中でも、作品と呼ばれるもの全般に及んでいくと思うんだよね。それは雑に換言すると物語性といってもいい。そのひとがいかにそのような表現を行うに至ったかという生き方と価値観のこと。上のほうで写真技術がと書いたけれど、写真にはふたつの系統があり、ひとつは美術のいち表現としての流れ、もうひとつは記録を行うものとしての流れ。写真技術が登場して以降、絵画はリアリティから逆に自由になって本質を追究できるようになったそう。じぶんは写真をあれこれするなかで表現寄りのスタンスにおり、AI以降は絵画がなぞった流れを写真を通した表現で追っていくことになると思う。ここで戻ってくるのが、作品の背後に制作者を感じることの物語性と、それを求めてくれる人々のこと。このじぶんの視座に関心を持ってもらえて、眼差しを追体験してもらえること。いずれAIのほうが高度にリアルになっていくとしても、大抵の表現がAIでできるようになるとしてもなお、ひとがつくることの意義や存在感はより大きくなっていくんじゃないかな。そしてなにより結果だけが得られるAIでは決して代替できないもの、わたしがそれをする過程の面白さ、この価値もまた大きくなっていくはず。環境については間違いなく熾烈になっていくだろうけれど、いまなにかをつくっている人たちは、AIがあってもAIにできてもつくることを続ける、それでよいのだった。じぶんについて言えば、写真を通した作品をこのまま好きにつくっていく、ささやかな表現であっても日々の暮らしに馴染んだことだし、そうするのは自然なことに感じるから、ということに尽きる。ここまで書いてふと、冒頭のアーティストの絵はいつ飾ったんだっけと振り返ってみたら、ちょうど一年前のきょうだった。とくに意味はなくてもこんなことはあるんだね。もう窓辺でぬいとのんびりすることにして、おやすみ。