2025年8月15日(金)

産直を覗いたり、模型店で花火を買ったり。分かるはずと思って伝えたことが分からなくて/受け入れられなくて猛烈な反発を受けたこと、その想定がもはや成り立たないのだから、しかたのないことだなと思う。ベースの部分で「これって対等なの?」と問うたことの帰結なわけで、そうではなかったことの証左かもしれず、おそらくじぶんが成長したことで身の丈に合わない服を脱ぐような営みの一環なのだろね。強烈な攻撃性が引き出されたことは、「してあげているのに不服を言った」というかたちなどでの、なにかしらの図星だったのかもしれない。というか、ケアやアドバイスは要らないと伝えたことが発端でこれなのだし、ある種の共依存があったと考えるとすっと通るけれど、どうだろう。愛情や献身と呼べばいろいろに解釈できるだろうけれど、それらを拒んだとたんに狼狽→豹変でこの有様であり、それらによる支配があった/その支配を逃れたのではという気がするよ。気は沈むわりに楽でもあり落ち着いているのは、食い違っていたことで苦しかった前提と事実を一致させたところにあるんだろう。それなら、受け入れるがよい。さて、どうしよう。手放すと入ってくるという因果はたしかで、よいこととそうでないことはあざなえる縄であるし、こうしたことが起きるのはものの運びが大きく変化しているしるし。すこし離れたところから花火大会の花火を打ち上げる音がどん、どどん、と不連続に聞こえてくる。きっと、どうしなくてもいい。日々の選択がじぶんをどこかへ連れていってくれる。であるなら、日々の生活をなるべくよいあんばいにしておくことには、よい流れを引き込む力があるはず。しばらくはそりゃつらい。でもね、痛みは痛みでしかないし、生きていて痛みを避けたら鈍感になっちゃうからね。力を抜いておやり、じぶん。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です