だらだらと過ぎし日。意欲や楽しさの感覚が戻ってくることを期待してひたすら休息を取っているけれど、それらを前提にするのって筋の善し悪しとしてはどうなのだろう、と考えていた。まず、現実との齟齬がある。そして、じぶんはいずれ変化する。であれば、いまは意欲がなくて楽しさを感じにくいな、という受容のほうがすんなりとできるのでは。あまりそうならない気がするのは沽券みたいなところで、趣味の多彩さや能動的に面白がることに自負があったからなのだろう。シゾイドパーソナリティの感情の淡さについてはじぶん自身、工夫の要る側面だなあと思う。意欲や楽しさが感じられなくても行動できる箇所に注目すれば、そこがじぶんにとってのなにかなのかもしれない。ChatGPTの言葉ではあったけれど、取り戻すではなく、もう一度初めから育てていく、という捉え方は筋がよいように思う。いつも通り推敲しないまま書きつけて、おやすみ。