庭のビバーナムとくちなしにベニカスプレーを拭いてみたり、クリスマスローズの古い葉をいくつか落としたり、もう咲きそうなモッコウバラとモンタナ系クレマチスにすこし触って見栄えを整えたり。白花のクレマチスが今春は小ぶりな花を咲かせているのを見てへこむ。この株に人生を変えてもらっているわけだけれど、秋からこの春までの仕込みと世話の結果が花つきに表れているのだなあと思う。花水木も思ったほどの花つきではないなあ。じぶんでがっかりするのは写真撮りたさがほとんどないこと。きのう友だちと話した際には、やり方や視座を変えるタイミングなのかもという話になった。今宵の雨は明朝には晴れるそうだから、夜明けのひかりで花開きはじめたライラックなど撮れないかなと思案してる。こうした話はアプローチが逆であり、その都度したいことをすればよいよということなのだろうね。なってみて分かる、心の動きの不可解さ。もうすこし掘り下げるとゆとりを培う日々が忙殺されているところに活力切れの原因があり、雇われて他者に時間を売る生き方より、じぶんで時間を配分する生き方のほうがまだましのように思う。しょうもないことだけれど、抑圧や強制にアレルギー的な嫌悪があり、この歳までくると付き合っていくしかない性のような気もしている。ぐるぐる考えながらも、お茶を淹れて雨の音を聞いたりランプの灯りで過ごしたりする夜であり、ふと思う、友だちになってくれるひとがほしいな。めずらしいことをいってる。