午前中のみ通所。スタッフさんのひとりから「なにかありましたか」とそれとなくお気づかいの問いかけがあり、その場ではとくになにもというふうに答えたのだけれど、あとでよく考えてみるとさいきんのストレスが雰囲気に滲んでいたらしいと気づいた。まあいいか。これでもまだ無理して愛想よくしている節があり、しなくていいんだよねえといちいち思い直している。2021年の春から秋にかけて苦しんだ心気症的なものがかたちを変えてことしの一月から現れている、というのは書いておいたほうがよさそうな。話変わってふと思うこととして、ことしは庭の花が咲いたら写真をうまく撮れるだろうかみたいな思考がたまに走ることがあり、それについては実に意味のない欲を抱くなーと思う。花はそのありようによってただ咲き、ただ美しいのであって、どんな写真がどれだけ撮れるかとかは関係なかった。それは人間や社会の都合だった。たぶん、じぶんの心に他者というものをあまりに入れすぎたうえ、自然との接点が減っているから疲れるんだろう。美しいものへの予感の代わりに取れ高がよぎるあたり写真に頼り過ぎているし、感受性があまりに目減りしているから、季節の移ろいを見て感じるのがよいよ。