2025年12月16日(火)

午前中は歯科へ行ってあとはゆっくり。なんとなくしんどめだねと思って夕餉のあとはベッドで過ごしていた。そうして食べたぶん膨らむ感覚とか曖昧な具合の悪さとかおなかが微細に動く感覚とかぬいたちと触れている感覚になんとなく意識を向けているうち、身体の声がこれなんだ、という思いがぐっと実感を伴ってきた。なおもそうしていると、身体と、そして心も、いろいろな感覚で話していること、ずっと一緒にいたということにやっと気づいたんだと思えるようになってきた。いつだったかここで、じぶんはじぶんというよりもさまざまな価値観や経験や感受、感情、思考、記憶といったものの複合体、生態系だと思えると書いた記憶があり、ある時点からはじぶんがじぶんたちというそれぞれの過去から来ていまを共に行く複数の自己になったわけだけれど、ここへきてさらに、じぶんたちというのはさまざまな臓器や器官や神経系の寄せ集めとしての身体と、そしてそれら全体で宿る心だと感じる。じぶんたちをそうと認識している意識というのはまるでそれが自己の全てのようだったのに、いまやとてもささやかなもの、体と心に主体を譲りそれらの声を聞くためのもののよう。おなか、よそよそしく言えば消化器がつねに微細に活動している細やかな感覚を感じることが、すごくうれしくて心地いい。心臓の鼓動や血管の脈打つ感じも悪くないし、触れているぬいたちはこの身体の言葉を分かりやすくこちらへ伝えてくれる。いろんな内側の感覚が話している。直近のストレスと不確定要素について体も心もまだいくらかは不安がっていること、そのことはとても正しくてなにひとつ押さえ込む必要がなく耳を傾ければよいこと、控えめになった意識はみんなを守るためにあるよと約束したこと、どれもうれしい。風景や自然といった外からの情報を受け取る感覚が五感だとしたら、身体のなかで生じなかで感じ取る感覚=内受容感覚が織りなすものも、風景や自然のように飽きないものに感じる。この身体と心のことが大好きだな、これからはみんなでずっと一緒にいようねと思う。もしこうしたことを自己との和解とか関係の結び直しと表現するとしたらなんて味気ないんだろう、これはもっとそれ以上のもの、それとももっとこの先があるんだろうか。きょうはもうこの先を急がない。

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