午前のみ通所。面談があって疲れた。嫌がらせをしてきた人のその後について水を向けられたのだけれど、そうした話題は触れるだけで闘争/逃走モードになるなあ。むかしからスポーツ観戦なども含めて思うこととして、アドレナリンで脳がちりちりする感覚を不快で避けたいものに感じるのだよね。それから、自分の正しさに依拠した物言いをしたあとでは間違いが気になってくるもので、そこも帰ってきてから勝手に疲れてる。思うのは、支援する側としてはなるべくよかれと思うものであり、まあ、素直にすべてに付き合う必要はなくて、うまいことやりましょう、ということ。しばらく前のことでもやっとした思いが残るのは、ある支援員の方が言い残した「成長を楽しみにしてるんだよね」の言。もやっと=微細な嫌悪感が後を引くというのは、そのぶん肝心な感覚でもあるのだろう。対人スキルが高く経験豊富で興味は人間というひとに対して、人間のほうばかり向いている人間に特有の粘つきを感じることがあり、そこへの忌避感なのかもしれない。ただ、自分が粘つきと感じているものは一般にポジティヴなものなのだろうね。人や社会以外の方角にも視座を持っている人というのもやはりそれ自体の気配を帯びるもので、たとえば自然に向き合う人には、個人的には特有の抜け感というか、粘つきとは逆のさらっとした風通しを感じる。こうした感覚はいずれも、じぶんが社会から一定の距離を置きたいというところにつながるのだろう。なんとなく気が立っているときというのはここへ書きつけることがへんに傲慢で饒舌になるのだけれど、それはよくないときの傾向でもある、という自覚がある。あとで読み返したらげんなりしそうね。しっかり湯に浸かって身体を温めたのだから早く眠るがよかろ。