午前中は就労支援のプログラムを受け、食材の買い物などして帰宅。それから洗濯や夕餉のスープつくり、あとかばんにコーヒーの染みがついたのを念入りに洗って乾かした。もっといろいろタスクを詰め込めるでしょと意地の悪い発想が浮かぶけれど、できることをやってあとは休めばよいよ。十一月からは(十月がもう助走期間だったけれど)スケジュールに沿って人々の中で行動するから、気力体力の管理も必要。この話はオフラインでの関わりについてだけれど、つくづく思う、そのひとのそれが疾患や特性や不幸な成り行きといったものから放たれているとして、こちらの心をすり減らしてまで付き合いたい? 黙って離れたらいいだけなんじゃない? 愛想の尽きた人たちだけれど傷つけたくないなで際限なく消耗する暇があるなら、そろそろ自分の人生に集中したら? いい人ぶって身動き取れなくなってない? 潮時、という言葉が何度も脳裏に浮かぶ。同時に、ネガティブ・ケイパビリティという最近仕入れた概念も。たとえば二つの選択肢を用意してしまうとして(用意せず抱えるという別の選択肢がありうる)、もし片方を満たすことにしたのなら、そのあとではありえたもう片方も満たしてみたくなるもので、ただそれは無理筋。自分の選択に納得と責任を持つには、正解はなく、そのときどきでの最善があったと腑に落ちることなのでは。常々ぐるぐる考えていることではあるものの、こういうことをばたばた書き出す夜はある種の心地よさはありつつもとくに実りもないもので、はやいとこお布団へ行くのがいちばんしあわせだ。元気なときに判断をしたら、は、元気なときにはどうでもよくて考えもしないのだよね。だから、どうでもよいことにリソースを費やしてしまっている状態。意思だの決意なんて精神論はフィジカルでのしてやるのがよい。答え、よく眠り軽く運動をして元気にいよう。眠ろ。
きのうからずっとこの歌を聴きながら「愛が憎しみになったりすべてを笑える日がきたり 月日が流れると気持ちもいくらでも変わっていくから すべて嘘だといわないで」の歌詞がリフレインしている。