2021年9月20日(月)

お彼岸初日につき母と、父の墓と母方の墓をハシゴした。やっぱり早いみたいで墓地への来訪者は少なめ。そのあと工場を回って帰着。祖父宅の屋敷内にある、義母やいとこたちが残していった叔父の家を、母方の大叔父が買い取ろうかという話が持ち上がっているそう。それだと祖父宅の扱いとあわせて、全くの他人に渡るよりは話がすっきりするのかな。そうしたお金がないということをこれまでは聞いていたけれども。それから母のいとこというのか、僕にとっては絡み酒をしてくる親戚のおっさん……の母が、たしかきのう亡くなったそう。その人は介護施設に入っており、もう長くはないという判断が出されたとき、おっさんは親を引き取って看取れたらという愚痴を、母方のもうひとりの大叔父に相談したそう。僕にとっては関係が遠いということでいままで話が流れてこなかったのだけれど、周囲の判断が確定する前に耳にしていたら、僕はおっさんに看取らせるために行動したよ、という話を母にした。疫病対策のためにおっさんは母親と面会が叶わず、彼女は施設で眠りながら息を引き取ったと聞いた。葬儀は近親者だけで執り行うそう。

2021年9月19日(日)

朝のうちに果物屋へ出かけてぶどうを手に入れた。甲斐路が安かった。このぶどうの紅茶の香りが好きだ。うちへ帰ってからは、しそを倒した場所へ母のサルビアの苗を植えたり、届いたクレマチスの苗を柱の周りへ植えたり、庭の作業をいくつか。夕方見た夕焼けと月は、久しぶりの空の姿のように思えた。きのうおとといと掌編に没頭していたせいか、ほかの場所で使う言葉までがそちらの表現に引きずられる感じ。

2021年9月18日(土)

きのうの続き。デスクトップ機のエディタと紙のルーズリーフを前にしたり、ベッドでごろごろしているうちに、書きためていた複数のイメージが結びついて、ビラの一編になりそうな短い話をいつのまにかまとめ上げていた。自分なりに浮かされるようにつくった気がする。不思議な力だなー……。松任谷由実の『acasia(アカシア)』からイメージを借りた掌編で、もう幾年も前に発行したきりの折本……の、エンディング直後の話になったから、ビラを発行するとしたら、そちらの折本も手に入るようにした方がよいのだろな。極端なむらっ気に左右されやすいため、この先の進捗はまだなにひとつ見えないけれども。こういうとき掛かりっぱなしになるエンジンは、きちんと火を落として生活の側に合わせたほうが、あとあとの全体のパフォーマンスは上がるのだよね。あした早起きできたら少し出かけたい。

2021年9月17日(金)

『聖者たちの食卓』を観た。巡礼者に無料で食事を提供する寺院の人々の風景。余計な声は一切なく、あるのは食器を洗ったりめしを作ったりする喧噪だった。作業の合間にバックグラウンドで流すのに向いているとなにかで読み、たしかにそうなのだけれど、その一方で黙々と淡々とめしを作り食器を洗い奉仕する人々の姿や顔に、生きている実感を感じ取れる気がした。それが視聴者のお気楽な共感であれ、こうした映像なら観ていたい、心地よいと思わせるものがあった。それはさておき個人的に、こうした異邦の環境音みたいなものに惹かれる。たしか昨日、クレマチス3鉢、常緑性かつ冬咲きの「ユンナンエンシス」2つと白地に赤い花弁な「アイ・アム・レディ・キュー」の苗が届いた。土日の天候によっては植え付けることも可能だけれど、くるのは台風だしね。日没後に買い物へ向かう道すがら、わけもなくよろこびに包まれていた。自分がどんな存在なのかとかこれからどうなるのかとか、そういったことは一切心配にも思わず、いまこの瞬間から汲み出されるなにかが強烈にいまを肯定していた。こうした感覚はときおり訪れる。風景への圧倒的な没入感だったり、すべてのものが存在することへの実感と祝福だったり。「自分が特別なのではなくいまを特別に思えたら、なにかを喪うことすら受け入れられるのでは」という考えは以前から抱いているのだけれど、それはここまで強い受容なのかもしれない。きょうは例のビラの素材になるような短い話が書けないかと日がな考えており、進展は見えなくとも頭の中であれこれ取り組めたことが、こうしたよろこびの源泉らしかった。きのうの面談で「やりたいと思っても取り組めない」と相談したら、「一度空になったやる気を溜めているところなのでは」という解釈をもらい、それならいずれすんなり取り組めるようになるかもね、という話へ落ち着いたのだった。イメージを借りるつもりで松任谷由実の『acasia(アカシア)』を聴いている。この歌は口笛が吹きやすくてよいな。

2021年9月13日(月)

クローゼットの中へ置くつもりのたんすが届いた。もう一つ、チェストは一ヶ月後くらいに届くんだろう。チェストはたんすの下に設置する予定でいるから、届いた梱包はしばらくしまう。きょうは日がなどよんとした気分で過ごした。ただ、ぐつぐつと煮えた思考をするうちにふと気が晴れるような解釈が浮かんで、それからは少し楽になった。こういうの非効率であるし、自分で考えて納得するまでは内心いつまでも執着をすることも、怒りや苦しさを自分で維持/再生産してるなあと感じる。感情にも多様性を適用して一つの感情に支配されなければよいのでは、とする記事( これ )をたまたま読んで、へーと思った。それから母より聞いた話で、諸事情により祖父宅の防風林を切らせて欲しいと言ってきた懇意の農家さんが、母が契約書を書いたあとから条件を変えて業者へ伝え、やりたいようにしたそう。こうした寝技へ持ち込むえぐさについては、僕も祖父の振る舞いを見ていたつもりだったけれど、同じみたいだ。性別によって舐められたりそうでなかったのだろうなという感触について地方の保守性にもうんざりするけれど、こうしたことについて、もう後ろ盾もなく正面から対処していくことになるなーと思う。

2021年9月12日(日)

祖父宅の草刈りが片付いた。疲れた……。特に理由なく湧き出す不愉快な感情を抱えたまま、刈り払い機を力任せに振り回した。最終的には作業のほうへリソースを振れたのだけれど、たった半日のあいだ自分の心の動きを放置したことがいまになって影響しているのか、身体の疲労もあってしんどい。夕刻、ざわざわしているなーという思いでシャツにアイロンを掛けたものの、特に気分には変化なし。こんなことでやつれてこの先大丈夫なのか、心配以前に分からない。多少なり腹筋を鍛えていたおかげでなんなく動けたし、疲れといってもあれこれタスクをこなせるような感覚のものなのだけれど、これ、実際に疲労感が出てくるのはあしたかあさってだってこと、身をもって知ってる。あー、書くに任せているとネガティヴな表現が出てきやすい……。早いとこベッドへもぐり込むのがよかろ。祖父宅からの帰り道に靴屋さんへ立ち寄り、セール品のランニングシューズを買った。売り場をうろうろしていたら店員さんが話しかけてきてくださった。ここまで書いていくらか落ち着きが見えてきたように感じる。ここで雑記を書く行為には、雑念を書き出して外すとかその日の締めだとか、そうした鎮静の作用が含まれているんだろうと思う。