お盆が近いからと言われ、祖父宅の入り口付近の雑草を草刈り機で刈った。長袖長靴に帽子をかぶってエンジンの排気ガスを浴びながら、騒音の中黙々とブレードを払う。都心ではことし初めての猛暑日となったらしく、広く気温が上がって熱中症対策も呼び掛けられるような天候だった。上記のような安全を考慮した服装にすると、体内にこもった熱の逃げ場は主に顔面からのみとなり、保護メガネ(透明でサングラスのような形状)の内側に汗をかくという、一見わけのわかんないことが起きる。実際の作業時間はそれほどでなかったはずだけれど、簡単に大汗をかいてふらふらし、小休止にはペットボトル飲料を数本分、ごくごくと飲んだ。自分で草刈りをするまでは早朝にうるさいあれくらいに思っていたものの、これは熱や騒音や排気ガスなどのストレスを浴びながら体力を酷使する、危険を伴う重労働なんだと思った。ただ、野放図に育ったいのちを刈り取る邪なよろこびはある。様子を見に来た近所のおじいさんから「触れて音がしてもいいから歯をもっと低くして、根元から刈るといいよ」とアドバイスをもらった。そういえば先日のホームセンターの方も、回転する歯やそれを固定する部位は消耗品だから持ってきてくれたらメーカーで修理交換できます、みたいに仰っていた。
屋敷のうち人の出入りするあたりを刈り終えたころ、母と土地の境界の話をしていた本家のおじいさんが耕運機に乗ってやってきた。管理するものがいなくなり雑草の楽園と化している祖父の畑を、僕の使っている刈払機で払うのは大変だからと、耕運機でうなって(耕して)くれるという。機械が畑に入って少しうろうろするあいだに、藪漕ぎするような草むらはあっという間に肥沃な畑の土へ漉き込まれた。おじいさんが言うには、漉き込んだ雑草が枯れたころにもう一度うなる必要があるから、また来るよとのこと。ひらにお礼を言い、帰着。
断絶やわかり合えないことって、自分にはないものだと捉えれば、確実にそこにある豊かさとも言えるのではないだろうか。仮に相手そのものを許容できなくても、こちらが踏み込めないその淵を大切にすることができたら、それは精神的な多様性に繋がる気がする。利己的な考えかも知れないけれど、留飲を下げることはできそうだ。