当たり前のものに別の角度から光を当てて当たり前ではなくしてみるとき、ものごとが繊細な色彩の粒子を放つことは、感動の源泉だと思ってる。さっきまで煮物のにんじんを食べていた。こういうにんじんは、山や野で採ろうとしたらかなりの大物なはずで、その日の採集のハイライト扱いになるんじゃないだろうか。山菜採りでこういう手応えのあるものを手に入れたら晩ごはん作りも張り合いが出るだろうし、食べる行為だって余裕を持って向き合いながら味わうようになるはず。実感が必要なんだと思う。当たり前とか気にもとめない事柄って、そこへ視点が行けば遠くへ出かけるより簡単に新鮮さが得られるだろうから、そうしたものに慣れずいる態度を持てたら。
きょうは一日中涼しい風が吹き抜ける、梅雨寒の日だった。こうした天候の不思議な爽やかさってどこから来るんだろう。昨晩のラジオ深夜便で、吉田篤弘の『空ばかり見ていた』に収録されている、おでこが広いことを気にしながら喪失を抱える司書の話が朗読されていた。夏至を過ぎてかすかに色褪せるような感覚と、梅雨の涼しさや、これから暑い盛りということなんかが混ざり、やがて周波数が変調するような七月へ突入していくんだろね。風があるせいか、少し肌寒い。