2020年12月25日(金)

ことし最後の通院。浮き沈みなく過ごせた一年だった、治療してきてよかったと話すと、やっぱり最善のルートを通れる人ばかりではないから、いざというときに自分の判断だけでなく周りの意見を加味できるかどうかが大切だよね、と話してもらった。僕の耳には痛いはずだけれど、先生の話に実感がこもっていたこともあり、そうだなと思えた。それからうちへ帰って運び出したものの整理。ファンヒーター二台やオーブンレンジなどの不燃ごみを、家族と協力して清掃センターへ時間ぎりぎりに搬入した。ほかにも搬入すべきものがまだ残ってる。そちらの作業はあす以降の自分へ回すことにして、今夜は週末恒例のラジアンFを聞きながらこれを書いてる。金曜ロードショーのナウシカを観た。作品のなかの話ではあるんだけれど、終盤の展開で言い伝えというものがなぜ継承されるのかということを思ったら、ちょっと涙ぐんでしまった。例えば、ひとりの人間が朝起きてその日にすることを(思い出すみたいに)自覚するように、総体としての人類が持ち継承している直感や確信というものが存在して、それが言い伝えや予言というかたちを取るのかも知れない。それら直感/確信の源となる人々(の記憶)へ(想像力によって)近づこうとするとき、こちら(ババさま)の記憶が揺さぶられるのかも知れない。「その者……」と語る場面で、ババさまは語られてきたものだけでなく、語り紡いできた者たちの存在を感じ、その流れの果てに目の前の状況があると理解すればこそ、あれほど慟哭したのではないだろうか。大気中に満ちる王蟲の怒りを感じ取るくらい敏感な人なら、言い伝えを構成する時空の奥行きやその中で遍在する人々の思いくらい、経験と想像力で補ってると思うんだよね。そのへんの流れを一瞬に圧縮して発せられた言葉が「古き言い伝えはまことであった」だったらいいなあと、心許ない深読みだと分かっていても僕は思う。

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