2010年12月10日(金)

以前の日記で「温泉に浸かりたい」と書いたが、今日はその温泉へ行ってきた。大田原市黒羽の町営温泉、五峰の湯だ。

国道294号線沿いに「くらしの館」という観光施設がある。そこの十字路をローソン側に折れ道なりに行くと、三つ目の交差点辺りに小豆色した「五峰の湯」というのぼりがいくつも立っている。のぼりの連なる右手へぐるっと曲がり行った先がそこだ。市営バスも出ているらしい。JR西那須野駅東口から乗る市営バスの終点が五峰の湯、とのこと。温泉スタンドというのもあり、五峰の湯駐車場脇のスタンドで10リットル10円で販売されている。僕が来た時も帰る時も、それぞれ違う軽トラックがお湯を積んでいる最中だった。

入浴料というか施設の利用料金は大人ひとり五百円。ちょっと高い気もするが、施設全体の利用料だと思えばいい。レストランや農産物の直売所も施設の一部であり、他に大広間二つとその間に自販機やマッサージ器などの置かれた休憩所がある。

まあなんだかんだ言いつつ男場に入った。更衣室は割合の清潔感でドライヤーが置いてあった。写真を撮れなかったのが惜しまれる。コインロッカーで着替えて浴場へ。

まずはお湯をかぶって体を洗い、大浴場へそろそろと入る。このお湯、ぬるっとして粘性を帯びている気がする。pHが高いのでこう感じるらしい。パンフレットには「肌触りが非常に滑らかで皮膚に良いことから、『美人の湯』と呼ばれ大変好評です」とあった。熱さも適当で良い感じだ。ちなみにパンフには「男湯と女湯は一週間のローテーションで入れ替わります」とある。今回、ジャグジーがあるのは女湯の方だったらしい。些細なことではあるが。

洗ってさっぱりした頭の中で樋口了一の「1/6の夢旅人 2005ver」を口ずさみながら、のんびり湯に浸かった。温泉の宿命なのか田舎の早朝だからなのか知らないが、大浴場にいる人たちは10人強、大体60~70代のじいさんばかりのようだ。見れば裸で大浴場の外へガラス戸を通って出て行く人がいる。露天風呂というのはあれのことらしい。急ぐ必要もないからボケッとガラスの向こうの空を眺めていた。

んで、那須連峰を臨みつつ風に当たりつつ湯に浸かるのも良いかなと考え始め、だんだん上せてきたところで湯を上がった。前を隠さない男気溢るるおっさんもいるが、僕には真似出来ない。あまりしたくもないのが正直なところだ。とりあえずぺたぺたと露天風呂の方へ歩いて行った。

二重のガラス戸を開けて出たところで、隣のやはり露天風呂からわしわし響く声が聞こえた。おばさん連中がお喋りに花を咲かせているらしい。こちらも壁一枚隔てた露天風呂に入って浸かった。表の空気と風がぴりっとして気持ちよい。この風は那須の茶臼岳から吹いてきたものであろう、と勝手に決めつけた。植え込みのために男湯の方からは山が見づらいのだ。そのうち風呂の縁、木枠の角へ移動して、腕を広げて乗っける形でくつろいだ。相変わらずだみ声が届く。幸せな人はそれに気付かないからいけないだとか、うちの亭主の遺言がとか、日本人は金かねカネだ、とか。かわってこちらの露天風呂は静かである。男同士の静かなる連帯感である。

おばさん連中の幸福と人生論をぼんやり聞くうち頃合いを見計らって、連れのじいさんへ先に上がるよ、と言い残して出て行く中学生かそこらの子に続いて湯を出た。もう一度シャワーを浴びて体を拭き、更衣室へ。服を着替えてドライヤーを借りる。先月髪を切った折に縮毛矯正を掛けた髪なのですぐ乾いた。どうでもいいことではあるが、僕の地毛は猫っ毛で癖毛なのだ。ぼさぼさ。だから普段の風呂上がりは髪全体がうねって毛先も跳ねる。面倒くさいのでひと月とちょっと前、担当の美容師さんにストレートにして貰った。この美容師さんからは健全な肉体の維持の仕方を教わり、現在実行している最中である。じきまた散髪しに行くから少し驚いて貰えるだろう。

男湯の暖簾を再びくぐり、休憩所でドクターペッパーを買った。この癖の塊のような味がたまらなく好きなのだが、その辺の自販機ではあまり置いていない。飲みながら大広間の空いているテーブルへ移動した。見ると通路の突き当たりの奥の方にレストランがある。ちょうど昼時だし、ということで、飲み終わってからそちらへ赴いた。

山菜そばレストランは小さくて空いている席も一つだけだった。掻き込み時と言うことでおかみさんも忙しなく動き回っている。メニューを見ると、鮎の定食は4~10月までとなっていた。海鮮丼などはお高い。チタケそば・うどんというのは美味しそうだが旬のみの販売となっていてこれも高い。結局、山菜そばを頼むことに。待っているうちにおばさんの二人連れが空いた席を探していたので正面を譲った。

程なくしてそばが運ばれてきた。お先にと言って啜る。問題なく美味い。ちびコウを取り出して写真にぱちり。

腹八分目ほどに満たされたので席を離れてお会計へ。650円。ごちそうさまと言うと「どうも~」と返ってきた。先ほどの大広間のテーブルに戻り、その辺のおっさんたちの真似をするように横になってMP3プレーヤーを掛ける。こういうのはのんびり出来て良い。

ランキング壁に張ってあるポスターや広告、雑誌の切り抜きを眺めているうちに面白いものを見つけた。栃木県内の温泉施設の充実度、接待の様子、泉質をそれぞれ数値化して並べたもので、ここ五峰の湯の充実度は県内6位とある。誰が投票してるんだろうと思いながらこれも写真に撮った。

お金を払ったとはいえ、いつまでもだらだらしている訳にもいかない。そろそろ行くかと受付を出て駐車場へ降りていった。

民家 かご帰り際に「くらしの館」へ立ち寄った。今は季節を外しているがこの近くには黒羽の観光やなもあり、そこそこ賑やかなところである。くらしの館そのものはわらぶき屋根の民家を改装して無料で開放しているもので、その隣にふるさと物産センターという直売所がある。ここは朝九時から夕方六時まで営業していて、第二第四木曜日が定休日。一通り家の中を見て回って、千歯扱きやら何やらの昔の農具も見学してから帰途についた。うむ、今度また温泉に行きたい。

2010年12月9日(木)

今日は何事もなく過ぎていったので、前々から誰かに紹介したいと思いつつ叶わなかった本の紹介をしたいと思う。

九龍城砦 – 宮本隆司(著)

この「九龍城砦」は、159ページに及ぶ九龍城砦のかつてのありのままの姿を写した、宮本隆司氏によるモノクロハードカバーの写真集だ。僕が語るには物理的にも存在としても歴史的にもあまりに大きすぎて言葉にならない。以下、抜粋した文章と写真。これを見て読んで、本を直に手にとってくれる人がひとりでもいれば僥倖だ。

消滅した都市──宮本隆司

九龍城砦が消滅した。……

九龍城砦人間は時に、まったく想像を絶するものを作り出すものだ。九龍城砦は、国家と国家の狭間にあって、幾多の偶然の重なりで出現した都市であった。……

九龍城砦は、中国人の集合的無意識の巨大な結晶体なのだ。たまたま私たちの目の前に立ち上がった、奇跡のような、人類の営みの類いまれな超絶現象でもあった。

九龍城砦は、今世紀最大で最後の迷宮だった。……いずれにしても、九龍城砦は消滅してしまった。すでにこの地球上には存在しない。汚濁と苦悩にまみれていながら、どこか崇高で孤絶していたもの。その深い闇と混沌を直に見ることは、もう永久に不可能なことになってしまった。九龍城砦は、人々の記憶の中でのみ永久に生き続ける伝説の都市となったのである。九龍城砦

巻末の方に荒俣宏氏によるテキスト、「九龍城砦 最後の迷宮」と大橋健一氏の解説「九龍城砦の歴史」があるが、前者は現地からのレポート風になっているため、実際に読んで味わって貰いたいと思う。後者を抜粋。

九龍城砦
龍城砦――香港啓徳国際空港の北西数百メートルに位置するこの2.7ヘクタールの空間には、「魔窟」、「東洋のカスバ」、「犯罪の巣窟」等々、ありとあらゆる負のイメージが長きにわたって付与され続けてきた。この空間を埋め尽くしていた約500棟にものぼるといわれた不法建築群の取り壊しがすべて完了し、公園として整備された今日においてもなおそのイメージは人々の間に流布している。……

……

九龍城砦九龍城砦が好都合であったのは、少しでも安く住める場所を求める一般の難民にとってばかりではなかった。中国の社会主義化に伴って活動に制約を受けるようになった黒社会は、地元香港の黒社会と結託し、この九龍城砦を活動の拠点とした。1950年代から60年代にかけての九龍城砦には、その後の九龍城砦をめぐる「魔窟」伝説を構成する賭博、麻薬、売春などが存在したほか、これらの客寄せに行われたストリップショーや香港では禁止されている犬肉料理店もあったという。しかし、これらの存在が可能であったのは、必ずしも九龍城砦がもつ政治的真空地帯としての無政府性、無法性そのものにのみ由来していたとは言えない。実際には、賭博、麻薬、売春などは、当時九龍城砦の外にも存在していた。むしろ黒社会が、九龍城砦のそのような特殊性に目をつけ……

九龍城砦……この間、九龍城砦の人口は増加を続けてゆく。1950年代初頭、数千人であった城砦内の人口は、60年代までに2万人を越え、82年に「街坊福利事業促進委員会」が行った調査では、約1万2千戸、約四万人にまで増加している。同時に、50年代当時は、木造バラックや木造、石造の低層家屋によって構成されていた九龍城砦は、60年代に入るとコンクリート化、高層化し始め、60年代末から70年代にかけて何度も建て替えられながら更に高層化し続け、80年代までに最高16階建ての高層ビル群がほぼ空間を飽和状態に埋め尽くすに至った。……

九龍城砦……九龍城砦は決して社会解体の進行という意味でスラムではなかった。劣悪な居住環境、外部に流布するダーティーイメージとは裏腹に、そこには政治的真空地帯としていずれの政府からも干渉を受けないが故に自律的に形成された特異なコミュニティが存在していた。……

九龍城砦 九龍城砦しかし……1991年10月から93年3月まで3段階にわたって行われた立ち退き作業の後、九龍城砦はわずか10ヶ月で解体された。

1995年、九龍城砦の跡地には、中国伝統様式の建物を配した公園が完成した。ここには、1843年頃に城砦内に兵舎として建てられ、その後立ち退き作業開始の間際まで老人センターとして使われていた建物が改装され、”歴史的建造物”として残されているものの、激動する戦後香港社会で人びとの生存への意志の結晶として出現したあの特異なコミュニティについて記憶を辿れるものは、何も残されてはいない。(大橋健一)

「汚濁と苦悩にまみれていながら、どこか崇高で孤絶していたもの」との言葉そのもの、それがたぶん「九龍城砦」だ。本屋で見掛けた折には是非手に取ってみて欲しいと思う。

2010年12月6日(月)

日常のことごと。

最近僕は昼寝をするのが日課になっている。主に午前中、あちこち近所の公園に出向いてお日さまの光を浴びながら芝生に転がるのである。これは僕があまり仕事とか収入につながる事に熱心でないから出来る事だ。先月十一月の頭から始めた習慣だが、曇りや雨の日を除いて概ね続いているところを鑑みるに、これは僕にとって良い事だ。寒い日もあるが、日差しは柔らかい。不審の目で見られない程度に続けようと思う。

古本、というか漫画なのだが、百円の中古本を集めるのに凝るようになった。僕は好みにうるさい。色々な欲求を出来るだけまっすぐな形で発散しようと心がけているからだ。わがままとも言う。その中で、近頃見つけて当たりだと感じた漫画。

Amazonへのリンクをタイトルに張っておいた。「できそこないの物語」の第四巻はAmazonで注文し、明日郵便で届く手はず。まだ読んでいないという事なのだが、これはストーリーがおもちゃ箱をひっくり返したような適当さで展開されていて非常に面白いので、扉絵が好ましければ即買いである。「こころ」はかの夏目漱石の作品を現代風にアレンジしたもの。小説と併せて読むと非常に分かり易く奥深い。どの漫画も世界観が明瞭に組み立てられていて割合短く程よくまとまっているが、中でも榎本ナリコ氏の作品はいずれも安定感があり読んで損はしない。まだまだ中古漫画を発掘中なのでこれからも良いものが見つかるかも知れない。そのときは気が向けばここで紹介しようと思う。

先日百貨店でコーヒー豆とお酒を買った。トアルコ・トラジャとモカで迷ったが結局モカ。一応コーヒーミルはあるが、面倒くさいので挽いて貰った。中挽きで少し後悔。僕は細挽きで濃く淹れるのが好きなのだ。ここのコーヒーショップはKEY COFFEEなので、僕が昔から集めているUCCのクーポン券は集まらない。UCCのカード券も持っているのだが、これは期限が切れてしまった。お酒はベイリーズ。三本目である。

こう書いていると僕は何にも考えていないようだが、創作小説のネタで少し悩んでいる。僕は常に三話ぶんローカルに書きためておいて前の一話をアップロードするので、四話ぶん先の話の流れが決まらないのだ。まだアップロードしていない三話ぶんもごちゃごちゃと書き換える。まあ、ラストの描写はすでに決まっているのでそこから逆に繋げていこうかと思う。今のところ二話分の題名は決まっていて、04「ものごとを決めるために必要なこと」と05「それぞれの時の流れ」。お絵かきウサギはガラスの人魚をありていの人魚に還す魔法を訊くために魔法使いの事を追っている、という感じ。ちょいと科学文明の描写も。

それと「Info」の項目にTwitterへのリンクを足しておいた。かといって何かあるわけでもないのだが、とりあえず。

2010年11月30日(火)

大田原市の諏訪神社と不退寺の薬師堂行ってきた。どちらもこまめな手入れが行き届いているようで好ましい。

諏訪神社諏訪神社にはいわゆる大東亜戦争で亡くなった戦没者の慰霊碑がある。……と知ったのはこの神社を一巡りしてみたときで、先日の雑記の戦争つながりで書くのにちょうど良いからここにピックアップしてみるだけだ。時代は昭和十四年八月の北支那から昭和二十年の九月シンガポールまで、没年は二十一歳から三十一歳、十一名の名が掲げられている。若い。僕と同じくらいの年頃だ。言葉にするにはちと重い。灯籠

諏訪神社は大田原自然遊歩道の第五コース、ホロの碑と境の松との間にある。都市計画道路三三一号線(国道四百号線)のたいら屋前交差点を南側に折れ、道なりに数百メートル程行った右手の杉木立だ。下枝が払われて道沿いからも社殿が覗けるので行ってみれば簡単に分かる。

諏訪神社を後に不退寺薬師堂へ向かった。大田原の旧中心街、与一通りというのだったか、その通りの突き当たりに薬師堂はある。蛇尾川方面から蛇尾橋を渡ってまっすぐ商店街を行けば正面に参道と大銀杏の木がある。ちょっと言うと、先ほど触れた諏訪神社の道沿いにも大銀杏があり、こちらの方は杉林に囲まれていて紅葉の季節以外はあまり目立たない。どちらの銀杏も樹齢は分からないが同じくらい背が高く立派だ。

一面の黄色薬師堂は参道の辺り一面に銀杏の黄色をまき散らして佇んでいた。雲一つ無い晴天のもと、その黄色が眩しく染み入る。通りかかったおばちゃんとすれ違って挨拶。案内板に有形文化財の文字があり、寛永年中(1624~1644)ごろ大田原氏によって建立とある。先日の雑記の経塚稲荷神社と成立した時代が重なるあたり、この時代の大田原(大俵が語源とも言われている)は城下町・宿場町として大層繁栄していたんだなあと思う。それを象徴的に表していたのがいつぞやの金灯籠なのだが、金灯籠そのものはこの雑記に書いたとおり旧市街地の活性化のための家屋解体とビル建築にあたり場所を移されてしまい、今では街の交差点の読み仮名にその名がただ残るばかりだ。

幾つかの案内板を巡って回るうちに面白いものを見つけた。「大田原の盆おどり唄」というもので、昭和53年9月7日選定とある。この盆踊唄は毎年八月の与一まつりで行われている盆踊りだ。以下抜粋。……大田原の盆おどり唄の起源についてはつまびらかではない。発祥の地は下町(中央二丁目)薬師堂の庭とも言われている。……唄の節回しも田舎節から都節に変わり、音楽的に統一性を欠くが、一種独特で他には見られない節回しである。……大田原の盆踊り唄は残り少ないふるさとの盆踊唄の一つである。……

薬師堂では冬の間に甘茶を振る舞うイベントがあるのだが、詳しい日程を失念してしまった。下町のささやかなお祭りだから見逃してしまうかも知れない。花市の頃だったかな。まあ出会えたら幸運、位に思い留めておこう。

話変わってメールアカウントの掃除。今使っているメーラーはnPOPQというもので、これがシンプルで使いやすいのだが更新停止からずいぶん経つソフトだ。今日はWindows Liveメールを使って、普段特に巡回していないアカウントも含めてお掃除とバックアップを取ることにした。未読メールが1037通、そのうちYahoo! アカウントの広告とSPAMが半分。ネット記事の定点観測をしているGmailアカウントを読了にして、私用でいくつかメインで使っているZenno.comのフリー・100円メールの容量確認やら細々とした調整。Zenno.comのWebメールは出先で使うのにもってこいなので重宝している。ぷらメールは仕様が複雑なのでメーラー側で振り分け。nPOPシリーズの当初の目標はフロッピーディスク一枚に収まる簡易メーラーだったらしいが、今ではWebメールやUSBメモリと言うものがあるし、しかし使い慣れたアプリを手放すには少々惜しいということで、現在から当面の間はこのnPOPQとカスタマイザひとつでやっていく事に。なんとかバックアップも取ったし、メーラーも定常運転へ。

Webを検索していて、昔の大学の先輩を見つけた。サークルが同じだったので何度か世話を見てもらった事がある。セミプロのアコースティック・ギター弾きの方で、こちらのYoutube – 「風を誘う少女」は昔、その先輩から200円で買ったオリジナルCDに収まっているそれのバージョン違いだ。とてもいい曲なのでもっと他の人に聴いて欲しいと思う。こんなWebの片隅からだが一応、エールを込めて。

2010年11月25日(木)

先日祖父から聞いた金丸の飛行場跡の倉庫を見に、那須野ヶ原CCの辺りまで行ってみた。行ってみたと言っても、常々通る道の脇だからたまたまちょいと折れて入ってみた、というのが正しい。平べったい弧を描いたコンクリートの壕があった。金丸原飛行場跡こちらの金丸原飛行場跡というページが詳しい。祖母の話では戦時中(小学三年生だったか)、兵隊さん達がぞろぞろと宇都宮駐屯地から金丸演習場までの40kmの道のりを歩いてきた場を見た事があると言い、へとへとに疲れ切っていたその様子がかわいそうだったと語った。その頃、太平洋戦争のことを大東亜戦争と呼んでいたという。

祖父の言っていた警察署の前の「御稲荷さん」にも今日行ってきた。経塚稲荷神社だ。学生の頃、良くこの辺りで昼飯を食べていた。朱の鳥居 駒狐様 ひがん桜石碑に寛永十年(一六三三)建立とあるから、そう古いものではないらしい。少なくともこの辺り一帯の、那須野巻狩の前後に建てられた神社・稲荷とは別の性質のものだ。例大祭は四月第一土曜日、神域を護る杉木立の隣にある「ひがん桜」の樹齢は約180年とのこと。社務所は公民館を兼用していた。この稲荷、地元の人々に親しまれながら今に至る、地域密着型の神社のようだ。まあ稲荷というものはだいたい地域と密接な関係を持って存えているものなのだが。佐久山の御殿山稲荷神社のようなのは多分例外だろう。

近くの交差点の角に珈琲専科・茶羅という喫茶店がある。以前に何度か立ち寄った事があり、ここは外観も内装も、いかにも純喫茶という風で好ましい。ただメニューがおしなべて高めだ。経塚稲荷神社のついでにと、ぼちぼち立ち寄って中へ入った。ちゃらんちゃらんとドアベルが鳴る。

カウンターにつくとしばらくしてメニューとおしぼりが渡された。何の気なしにカプチーノを注文。待っている間、ぼんやりと辺りを眺めてみた。正面の棚には高価そうな金の縁取りやら何やらを施されたコーヒーカップが並び、真ん中にはブランデー等のお酒の瓶が置いてあった。多分このブランデーでカフェ・ロワイヤルなんかを淹れるのだろう。棚の下にはKEY COFFEEの青い缶がマンデリンとかグアテマラとかキリマンジャロとかのラベルを貼られて置かれており、目の前のカウンターの向こうで小さめのサイフォンが三つ、静かにバーナーで炙られていた。店の奥ではスーツを着た男性が新聞を広げ、近所の奥様連中がなにかしら雑談し、入った事のない右側の部屋にも誰かいただろうか。横のおっちゃんが「んじゃ、そろそろいくか」と独りごちてお会計の方へ歩いて行った。

肘をついてしばらく瞑想していると「どうぞ」とカプチーノ。GABANのロゴの入ったシナモンスティックが添えてある。質感と香りから察するにセイロンシナモンだろうか。クリームの上にもシナモンが一振りとオレンジピールがちょっぴり。とりあえずカップに口を付けると、冷たくて濃くさっぱりしたクリームと熱々のエスプレッソの層が流れ込んでくる。クリームは何か変わったものを使っているようだが、僕の舌では分からなかった。一息ついて、スティックでくるくるかき混ぜながら、小説のネタの事やなんかを考え、ひとくち、ひとくちと飲んでいるうちに時間が過ぎていった。

割と長居せずに会計をして店を出た。そういえば学生時代は良くこの店の前を通ったが、入る事は結局無かったな。それだけ僕自身が変わったという事でもあるのだろう。またの機会にここへ寄ってみようっと。

2010年11月23日(火)

黒羽矯正展行ってきた。毎年この日になると近くの県道沿いが渋滞したものだが、今日に限っては午前中の雨模様にやられて人出も押さえられた様子だ。みかん一箱と煮卵六つ、函館少年刑務所謹製の○獄(まるごく)ポーチなどを購入してきた。○獄ポーチ

この矯正展の展示販売家具は品質が非常に高く、数万円から十数万円という価格に抑えられた家具が赤札で掛けられ、日が高く昇る頃には続々と売約済みになっているのだ。総檜の日光彫りなどに触れてきたが、質感のずっしりとしたそれはしかし決してくどくないという印象を受けた。

ところで、いつもの日記。「何処其処に行ってきた」では飽きてしまうし、そろそろ過去に追いやってよい記憶だと思うので、僕がかつてそこにいた場所の事を誰にともなく紹介しておく。

人は誰しも多くの陰を抱えて過ぎ去って行くもので、僕の駆け抜けた時間もそうだった。過去形で書いているのは今現在、僕が自分の人生の一部をすでに生きたと感じているからだ。全うしたとは言えないが、今の自分につながる時間と時代を駆け抜いた、そういう実感がある。有り体に言ってしまうなら孤独の連続で、それに割と偶然にも耐えきってしまった自分が居た、耐えきる事に人生の一部を賭けていた。かつて「人生、59敗1勝くらいでいいんじゃないか」と教えてくれた方がいたが、僕はすでに一回勝利して、今現在を有余と猶予の渡河にいると感じている。

現実に話を戻せば、僕が実際に居た、ポラロイドSX-70の600高感度フィルムの青さに似た時間と場所、それは京都駅の屋上だった。正確にはJR京都駅伊勢丹ビル側の屋上庭園を臨む工事現場だ。京都駅ビル屋上にヘリポートがあると知ったのはこのときにだった。

至るまでの通路はこうだ。草津方面から東海道線を下車し西跨線橋を中央改札口へ向かって歩く。一階の中央コンコースをJR京都伊勢丹、The CUBEに向かいエスカレーターをてっぺんまで上がる。正面に位置するJR京都伊勢丹ビルの右側入り口を跨ぎ通路を突っ切ると、ビルの屋上庭園とは別の工事現場へ至る非常階段がある。ここは常時警備員が徘徊していて鬱陶しい事この上ない。七階辺りまでの扉一つだけは従業員の清掃業務のため必ず鍵が掛かっていない。頃合いを見計らって、時間は夜か昼の十時過ぎ辺りだろうか、階段を一気に非常口まで駆け上がる。鍵には緑のプラスチックの鍵カバーが掛かっている。これを外してまたかぶせ、ドアをくぐる。周りはフェンスに囲まれた一坪庭、向う側には京都伊勢丹屋上庭園が見えるはずだ。フェンスを跨いで登る。左側コンクリート壁の下の陰に脚立が隠してある。これを立たせてコンクリを素早く登り、あとは架線にそって剥き出しの忘れ去られた工事現場を渡り、L字にもう一つの屋上非常口扉が見える位置まで小走りに駆け抜けていけばいい。

そうすると少し開けた場所に出るだろう。目の前にはどこからか通じている非常口と、もう一つコンクリ壁に打ち付けられたはしごがある。これを登れば、京都タワーを除き京都で一番見晴らしのいい屋上に至る、というわけだ。

あの場所には大切な思い出が残されている。が、僕はそこを立ち去って、もう別の人生の渡河にいる。僕の第一の生は言ってみれば屋上と青空だった。立つ鳥跡を濁さずというが、僕がこれまでの事々と別れるにはいつも、文章に直すのが一番の方法だった。あとは誰かがあの空や屋上を受け継いで、それをまた誰かに受け継がせて行けばいい。

この文章がWebのキャッシュのどこかに幾らかでも残り続ける事を期待して、今日の日記ここでおしまい。

2010年11月21日(日)

大田原市佐久山・御殿山公園の紅葉祭へ行ってきた。箒川を渡って段丘を登り、佐久山街道へ。一見寂れた感じのある街路だが、この地域では結構頻繁にイベントや祭りが開催されている。

紅葉祭開催期間の末日・十一月二十五日までは、午後五時から九時半あたりまで園内のライトアップが行われているとのこと。もう時期的にぎりぎりだし、折角のいいお天気なので昼間に出掛けた。駐車場の脇ではおっちゃん達が仮設テントのもと談笑しており、公園の入り口で地元のおばちゃん達がおでんや甘酒、大判焼きを売っていた。財布の中に百円玉が一個転がっていたのでそれでおでんのこんにゃくを買った。ほんのり柚子の香る味噌を付けてもらって、まずは食べる。地元らしいそれなりな賑わいの中で、携帯電話から一眼レフまで様々にカメラを持った人が目の前を通り過ぎていった。

カエデ ツタが登る 一面の紅葉御殿山公園は山の側面にある。眺望の良い場所を探して傾斜の急な階段を上りながら、辺り一杯のカエデの大木を見渡した。名札を見ると土佐楓とある。何故土佐なのか分からずにいたが、今ググったところではこのページ那須高原の四季 佐久山御殿山もみじ祭が詳しい。以下、引用の引用。

佐久山御殿山公園の楓について

安永年間(1772~1780年)佐久山藩主として四国山内土佐守一豊の子孫である資敬公(福原家佐久山藩23代藩主)が養子として迎えられた時、純粋の土佐楓5~6本を持参し、佐久山城敷地内に植え故郷を偲んだと伝えられ、今は1本のみ現存している。

佐久山地区活性化協議会が配布する資料を引用

佐久山と聞くと僕はどうしても夏場の花火大会を思い出してしまうのだが、ここ御殿山公園は佐久山城趾であり、割と市内でメジャーな方の観桜、観楓スポットだ。丘陵の南東側にある展望台に登ってみると大田原市街地が一望出来た。少し下に目を動かすと箒川、佐久山街道(旧陸羽街道)、佐久山小学校が順に見え、学校脇の銀杏の木が見事ビビッドな黄色に染まっていた。

園内をぶらついているうち、枯れ草の茂みに鳥居が立っている事に気がついた。見ると御殿山稲荷神社とある。こんなところにも、と、思わず写真にぱちり。鳥居 質素である。駒狐さまはいなかった。灯籠の後ろに寄進と書いてあり、雑草に半ば埋もれるように石碑が立っている。

御殿山稲荷神社

縁起

此の稲荷神社は鎌倉時代則ち文治三年那須の守護那須太郎資隆公次男佐久山次郎泰隆公此の地に初めて築城せし折城内鎮護として京都より伏見稲荷の神霊を奉祀す

……

廃藩置県後は旧藩士により祭祀し護持されてきたがその社殿老朽し仍って佐久山在住藩士子孫十七名相計りここに新殿を建立す

……

平成十年七月吉日

漢字ばかりで読みづらいが、文治 – Wikipediaという年号は十二世紀、鎌倉時代のもの。那須太郎資隆というのは那須氏初代当主であり那須与一公の父親であるらしい。此の稲荷神社、かなり由緒と歴史ある代物だ。その割には参道は雑草で一杯だったし、こっそり覗かせてもらった内部は質素な造りになっている。まあいいや、こういう神社のあり方も、忘れられずにいるだけ恵まれているのだろう。

割とあっさりとした帰り際に近所の母の実家へ立ち寄っていこうと思い、手土産に大判焼きを買った。売店のおばちゃんの話で、近々市だったか地元新聞の写真コンクールがある事、上手いのが撮れたら応募するといいよという旨を聞いた。いやいや、と苦笑いしてその場を立ち去ったが、そうだな、そういう目標の建て方もあるなと思った。

それから実家に向かい、祖父と祖母に御殿山稲荷神社の事を尋ねてみた。「お稲荷さまといったら警察署の前のだろう」。どうやら地元の祖父母も御殿山の稲荷神社の事は知らなかったらしい。代わりに、近所で「お稲荷さん」と呼ばれている、個人のお宅で祀っている稲荷(神社ではない)のことを聞かせてもらった。ああ、確かにあの民家の脇には鳥居があるが、稲荷だったのか。そう話しながら、この地元の史跡の話もしてもらった。年上の人の話は聞くものだなと改めて思う。今度晴れている日にその辺りへ出掛ける事にして、今日はこの辺でおしまい。

2010年11月20日(土)

馬鹿みたいに天気が良かったので散歩に出掛けた。

よく分からない山の中を登ったり降りたり、農家のおっちゃんに道を訊いててくてく歩く。干してある大根家の前にぬか漬けのためのものであろう大根が干してあった。山の中なので起伏が激しい。くねる林道を歩くのは楽しいが、上り坂はあんまり面白くないな、などと考え事をしながらぶらついた。農家のおっちゃんの話で羽田沼だけでなく琵琶池にもハクチョウは来るよという事を教えてもらったので、ハクチョウ到来の季節になったら行ってみようと思う。一時間ほど歩いただろうか。万歩計を持って出るのを忘れたので詳しくは分からない。額に汗がにじむほど良い天気だった。落ち残った柿

午前中に郵便が届いた。何かと思って差出人を見るとVISIT FINLANDとある。思い出した。一週間ほど前、フィンランド政府観光局(リニューアル中らしい)のWebサイトで観光案内の資料を送って貰えるよう頼んで銀行振り込みをしてきたのだ。

何故唐突に観光パンフと思われるかも知れないが、体を最も壊していた時期に、僕はパンフレットとか本屋の無料小雑誌を集めるのに凝っていた。空想や妄想の種を育むのにそれらがもっとも手頃だったのだ。そういう事をarmchair travelingと呼ぶ事を知ったのは結構後になってからだ。あまり関係ないがarmchair travelerでググると最初に出てくるAmazonのAmazon.co.jp: The Armchair Traveller;Southbound:というアルバムは僕も持っている。中にはode music productionの創始者となったbayakaやchari chariの名で知られている井上薫氏など大御所の音楽がいくつか収まっている。紙のジャケットの内側には雪国を歩く場面と南国の浜辺に横たわる座椅子の写真が拵えてあって、Southboundの名の通り南へ旅立ちたいとき聴くと良い一枚だ。

話が逸れたが、僕は元来空想好きな上に収集癖持ちだった事もあり、あちこちの観光パンフ集めは次第に熱狂的なものになっていった。そこで興味を持った(最近は「触手を伸ばす」とも表現するらしいな)のが世界各国の政府観光局で配布しているパンフレットだ。ネットで資料請求出来る国のものはほとんど集めたと思う。んで、今更になってフィンランドのパンフを請求した理由だが、フィンランド政府観光局刊行の「トラベルノート」を久しぶりに眺めようとして部屋を探したのだが見つからないのだ。置く場所は本棚しかないから迷うはずはないのだけれど、良く引き出すからだろうか、どうにも何かの拍子に無くしてしまったらしい。仕方なく再度請求をした、というわけだ。フィンランドの観光パンフ今回届いたのがこちらのパンフ達で、画像の中の「Finland Summer Guide 2009」以外のものは無料で上記のサイトから請求出来る。もちろん他に有料パンフは沢山あって、フィンランド観光局のものは出来が良く内容も充実しているので、一度サイトからご覧になるといいだろう。

政府の観光パンフというのは七割方が有料で、ネット上からの請求の半分位は切手支払いとなっている。観光収入に力を入れていない、若しくは自国を広報する手段をWeb上に持っていても内容に乏しい国々は、資料を請求しようにもそもそもフォームが無かったり、どんな資料があるのか書いていなかったりする事が多い。そういうときは都の各政府大使館へ足を運んで訊ねればいいだけなのだが、何せ今暮らしている地元は首都圏とはいえ端の端っこだし、熱烈に蒐集していたころは関西の方で生活していたしで、訪れる機会に恵まれずにいる。今はもう熱烈な衝動と妄想がやってこないので、いずれいわゆる「若い頃集めていたレコード」になるのかなあ、と思ったり。

フィンランド政府観光局刊行トラベルノート「トラベルノート」の事。親しみやすいテンポで綴られた38ページの小雑誌で、国の統計情報から首都ヘルシンキ周辺の地図や施設・散策案内、フィンランドに関する細々とした図鑑などど、とても濃い内容となっている。想像を刺激するのにちょうど良い写真と文章のバランスが旅へのあこがれを非常に良く?き立ててくれる。僕は現在体を壊して療養中の身だが、それを治して海外へ行けるようになった暁には、夏の北欧にもぶらっと行ってみたいと思う。

2010年11月18日(木)

大間々の展望台からこれは矢板市の八方ヶ原・大間々の展望台から眺めた那須地域。左手に那須連峰がある。本日の八方ヶ原は天気が変わりやすく少し吹雪いていた。

昨日は那須温泉郷の殺生石へ行ってきた。曇りがちな天気のもと那須街道を抜け湯本へ至る道へ。

殺生石のふもとから流れ出でる湯川を渡る手前の駐車場に車を止め、まずまっすぐ殺生石へ向かった。殺生石辺りは礫や岩がごろごろしていて歩けないため、観光用の歩道が敷かれている。一番手前にあるのは盲蛇石。これは案内によって「Mojaishi(もうじゃいし)」「めくらへびいし」と二つの呼び方があるようだ。この石は賽の河原と呼ばれる岩だらけの一帯にある。賽の河原のイメージからなのか単純に登山道としての中途にあるからなのか知らないが、そこかしこに小石が積み上げられている。ふつうはこれをケルンcairnと言い、いつ、どこで誰が始めたのか分からないくらい世界中の山々で見られる光景でもある。が、ここは亜硫酸ガスや硫化水素ガスの吹き出す死の地だ。亡者と鬼の三途の川縁といった方が似合っているのだろう。

盲蛇の湯の花木道を歩き、湯の花採取場へ至る頃には、辺りはすでに濃い硫黄の匂いで被われていた。ここの湯の花にも謂われがあり、昔、ある男が盲の蛇に出会い親切にしてやったところ、その恩返しとして湯の花の作り方を教わった、のだとか。側の小石を拾ってみると、それは黄褐色をした硫黄と小砂利の混ざったそれだった。

教伝地蔵賽の河原だから地蔵菩薩もいる。河原中央の教伝(教傳)地蔵と千体地蔵だ。実際には千体もいないのだろうが、ひとつひとつに編み帽子がかぶせてあって和む。花も供えてあるのは近くの温泉神社の人のものだろうか。教伝地蔵のあるところは教傳地獄と呼ばれていて、これまた昔、親不孝をしたために天罰を受け死んでしまった青年を供養しているという。

九尾の狐伝説、殺生石木道の突き当たり、正面の断崖上にあるのが殺生石だ。殺生石と言えば九尾の狐、玉藻の前。鏡が池のほとり、桜の木の上にいるところを三浦介義明に矢で射貫かれ絶命した……ここまでが玉藻稲荷での言い伝え。こちらでの伝えによれば、この妖狐は死後、更に毒石へ姿を変え毒気を放って人畜に危害を加えたとのこと。そのため「殺生石」という名が付いたのだが、案内板にはのちに会津示現寺の玄翁和尚が岩にこもる妖狐の恨みを封じ、ようやく毒気も少なくなったと書かれている。予備知識では確か、和尚が金槌(玄翁)で岩を打ち砕き破片が日本各地へ四散し、そのため各地に九尾の狐伝説が生まれる事となった、はずだったかな。大陸、つまり海を渡って飛んでいった破片もあって、それが向こうでまた伝説を生んだという話まであるくらいだから、玉藻稲荷と殺生石との間の伝承は多少のズレくらい構わないのだろう。

頬っ被りのきつねさん 那須湯泉神社と九尾稲荷木道を左手に逸れて橋を渡って数百メートル行った先に、那須湯泉神社と九尾稲荷がある。何だかこの雑記ではキツネや稲荷神社の事ばかり書いているような気もするが、烏ヶ森稲荷といいここといい、なぜ稲荷というのは脇とか隅っこのほうにあるんだろうか。それはともかく、この九尾稲荷神社には詳しい説明書きが見当たらなかった。造りもそう古くはないし、おそらくは九尾の名を冠したのみでごく普通の、五穀豊穣を祈るための社なのだろう。

那須温泉の発見にも謂われがある。七世紀頃の昔に、狩りで傷ついた白毛の鹿を狩人が追っていたところ、その鹿が温泉に浸かり傷を癒しているのを見つけた、というのが那須温泉の初まりだという。

鹿の像近くに足湯に浸かれるあずま小屋があったので入ってみた。結構熱い。足湯は二つの湯に分かれていて、僕の反対側の湯ではおばちゃん方が三人、同じように足を浸かりながら談笑していた。しばらくして湯から上がり帰り道へ戻っていったが、家に着くまで足はぽかぽかしていた。うむ、今度は体丸ごと湯に浸かりたい。

2010年11月14日(日)

今日は母の誘いで笠間稲荷神社に出掛けてきた。車で揺られる事一時間半、茨城県の笠間市へ。

参道に近い駐車場はどこも満杯だった。母の目当ての「笠間の菊まつり」というのが10月16日から11月23日まで開かれているらしくて、加えて日曜日の朝だった事もあり、付近は人でごった返していた。この103回目のお祭りでは、NHKの大河ドラマ「竜馬伝」を模した菊人形展と菊花の品評会をやっており、参道から手水舎、御本殿、裏庭の有料展示ゾーンに至るまで、笠間稲荷神社を貫くように五千鉢以上という菊花が展示されていた。

大和古流奉納たどり着いた朝十時ごろは、菊の花の香りが漂う中、拝殿の前の広場で「大和古流奉納」という奉納の儀が行われていた。男性が垂れ幕の的に弓を射って場を清めているらしいのだが、人だかりの為によく見えないしアナウンスも聞き辛い。四神の朱雀がどうだとか玄武がなんだとか途切れ途切れに聞こえてきている内に、儀は割とあっさりと終わってしまったらしい。七五三で来ている子供連れ向けの行事が始まったようだったのでその場を人に譲って離れた。手元のパンフレットによれば、大和古流(こる)奉納式とは、諸処の芸や道を継承している大和古流の当主がその奥義を奉納する式、なのだそうだ。

菊 虻社務所の反対側に展示向けの菊花がずらりと並べられていた。先日大田原市の産業文化祭でやはり菊の展示会を見てきたが、それよりもだいぶん規模が大きい。花の善し悪しは素人目には分かるはずもないのだが、一つ一つの花ぶりは見事だと気圧された感じがした。菊花の種類も数百以上と絢爛豪華だ。肌寒い空のもと、何匹かの蜂や虻がたかって蜜をすすっていた。

お稲荷さまの群れ御本殿の裏手の売店が建ち並ぶ方へ歩んでいくと、ケヤキかなにかの木の隣にお稲荷さまが地面に沢山並べられていた。石造りのものもあれば焼き物のものもある。見た感じどこか欠けたりしている風でもないし、どうして置いてあるんだろう。不思議な光景だ。

銀杏の紅葉裏門を出て菊人形の展示場である笠間稲荷神社美術館へ来た辺りで、あたりがやたら臭うのに気がついた。地面を見ると紅葉した落ち葉に混じって、銀杏が至る所で踏みつぶされている。これのニオイだったのかと少し顔をしかめながら券売所の脇を通った。正面に櫓があり、でん、と坂本竜馬とその妻お龍の菊人形が佇んでおり、日本初新婚旅行、とこれまたでかく看板が立っている。その周りを囲むように意趣をこらした菊の展示が行われていた。それは古都の風景だったり富士山だったりと、よく作ったなあとただただ感心するばかりだ。竜馬と加尾美術館の中では坂本竜馬の生涯をパネル展示と菊人形の組み合わせで展示していた。悲しい事に僕は高校で世界史や日本史を学ばなかったので、龍馬の事もあまりよく分からなかったのだが、江戸と明治という時代を駆け抜けた志士だったようなことは分かった。写真が大好きだったらしく、晩年はゆったり暮らしたようで何よりだ。

菊も見終わって、茶店で味噌田楽と甘酒を頼むとお茶が出てきた。気遣いに心も温まる。ちゃんちゃんこのお稲荷さまとちびコウ参道をぶらぶらと歩いている内にちゃんちゃんこを着たお稲荷さまを見つけ、ぬいぐるみと一緒に写真に撮った。仲見世でお稲荷さまの焼き物を見つけ、家の部屋に置くつもりで三寸のを買ってしまった。鳥居をくぐり表道に出ると、バスでやって来たらしい観光客達が大勢、門の脇の椅子に座っていた。その横でまたちょいと休憩。やがて歩くうち、笠間のマスコットキャラクター、いな吉くんというのが目に入った。辺りの店は笠間稲荷神社にあやかって、いなり寿司やキツネの焼き物などを並べているようだ。半ば歩行者天国とかしている道路を渡り、車に戻った。大変活気のあるところだったなあ。来るのに時間は掛かるが、また新年に入ったら行ってみたい。

おうちのお稲荷さまで、こちらが自室のCD棚の前に置かれたお稲荷さま。対でひと組だった。神棚が無くここしか場所がなかったので、ここにお酒も備える事に。何か御利益でもあるかなあ。