2018年11月8日(木)

スーパーカブの納車日だった。Dioと違い、ギアを自分で変更するタイプになっている。全体の操作を覚えるために近所で馴らし運転をした方が良さそうだ。

BEASTERSの11巻を読む。こういう着地の取り方するんだーという感慨がある一方、続きが気になるところ。もしかして、作中の季節が春になるまでに(進級して)完結するのだろうか。それからトーヴェ・ヤンソン『島暮らしの記録』を読了。岩礁で珈琲を飲むとか僅かな土に薔薇を植えるといった、『ムーミンパパ海へ行く』で断片的に目にしていた記述に気付く。積ん読に『少女ソフィアの夏』が控えてる。

2018年11月3日(土)

友達と市の産業文化祭へ。終始好天のもと、小中学生の作品や菊花の展示、フリーマーケットなんかを見て回った。

その帰り道すがら、ポケモンのブイズのガチャポンを見つけて一度回した。こういうの小学生以来ではないだろうか。グレイシアのラバーマスコットを引く。

そして友達の家にてしばしうだうだしたのち帰路。昔からの園芸店がまだ営業しているようだったのを見つけ、いずれは立ち寄りたいと思う。

2018年11月2日(金)

音楽の好みの話。自分がインストゥルメンタルやフュージョンのような歌詞を持たない曲を比較的好むのって、歌詞に興味が無いからでは、全くないな。その逆でひどく言葉を選り好みしてる。十代くらいで邦楽の洗礼を受けなかったことはたぶん、受け付ける表現の幅を狭めてる理由の一つだ。「君」なんて歌っているのを不用意に耳にすると、必要もなく身構えてしまう。こういう姿勢には心の境界の広さも関係してるんだろう。

そうしていても、好きになれる作品との出会いは尽きることのないところが、音楽のふところの広さだなあ。

暮れ時に立ち寄ったドラッグストアの隅のほうでは、The BanglesのWalk Like an Egyptianのリミックスがちんまりと流れていた。ほのかな年末感がある。

2018年11月1日(木)

少しでも散歩を続けるというのは、気分に加えて身体の調子も整うなあ。

テーブル裏のヒーターを掃除してこたつを出した。ハロウィンが終わったし、これから先の街並みはいそいそとクリスマスへ向かって加速をしていくのだろう。

最近流行りの、ビットコインに振り込め恐喝詐欺のメールが、僕のメールボックスにもやってきていた。そのアドレスは2005年くらいから利用している5MBのフリーメールだったのだけれど放置していて、ようやくパスワードを変えた。Gmailかクローラーにそこのログを拾ってもらってアカウントを削除しても良いかも知れない。

いろいろに読み解ける『ムーミンパパ海へ行く』のテーマを考えてる。家族の再生やムーミン一家の休暇、海との対話といったものが浮かんできたりするし、作者のトーベ・ヤンソンさん的には、ムーミンシリーズに生み出したモランの孤独という課題をここで解決してみせたのではなかろうか……というのは、読み返していた初期の『ムーミン谷の彗星』で「こわがられるとひとりぽっちになる」という趣旨の台詞が出てくるからなのだけれど。そうだとしたらこの手腕は、ただの優しさを超えて一人ひとりを慈しむ感情のように思う。

あのあとのモランはもう海を渡れないだろうけれど、どうしただろうか。島で夜な夜な、灯台守の点ける明かりを見ているのかも。

そういえばこの一年くらいは波の動きが消えるように、頑固な不眠症を自覚せずに済んでいた。十年以上のあいだろくろく眠れないか、眠るために目を閉じている努力が必要だった。この変化は末梢神経の痺れや、慢性的な下痢、冷え性といったものが解消されていることと関連がありそうだ。まあずいぶんな体の使い方したもんね。

明朝の最低気温に3度という予報が出てる。たぶん今季最も冷える。

2018年10月30日(火)

身体が籠もる準備に入ったしるしとして、植物(園)の鬱蒼として湿度の高い匂いをかぎたい欲求がある。シモバシラは野辺に生えているのだろうか。午前中の穏やかな陽差しに「冬はつとめて」が出てくるような日だった。

2018年10月28日(日)

午前中に祖母の四十九日の法要が済んだ。喪失から日が経っているものの、この件で僕は、自分自身の気が付かない部分で落ち込んでいるようだなー。生きものの魂が永遠に捕縛されてる理想の世界なんてものはなくて、彼岸というのはここのことなのでは、と雑な思考が浮かぶ。

大昔にクルマの後部座席だか、手に届くところに積まれてあったせいでちらほら読んでいた、SFぽい小説のシリーズ名がTwitterで流れてきて判明した。宇宙英雄ローダン。日本語訳で既に500冊も刊行されているようだけれど、手を出してみようか、どうする。

それから、少年ジャンプ+で少しずつ公開されている「ワールドトリガー」という漫画がわりと面白いかも。

残念な事柄について『自分はあんなひどい連中とは違う』と内心で俯瞰している人たちも、断絶というものの一翼を担っているのではなかろうか。これはちょっと自信ない。