2021年1月3日(日)

GPVの予報だと今夜の雲はなかなか晴れなさそうだ。しぶんぎ座流星群はお預けかなあ。気分の変動があるときはさみしいものだ……。それはそれとして冬になるたび気分はやられて落ち込むから、大掃除の無理もそちらへすっと接続しているかもしれない。筋トレなり周りのものを愛でたりしてあと二ヶ月ばかり耐えような。一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた を読んでいるところ。高校のときに社会科で地理ばかり選択したおかげで、そちらは人生の楽しみといっていいくらい血肉になっているのだけれど、代わりに歴史の知識はゼロになってしまい、それはそのままこの歳まできてる。やっぱり歴史感覚を持っていたほうが物事の認識には幅が出るはずだよねということで、いくつかのサイトで歴史勉強の初級編としておすすめされていたこの本を手に取った。内容の紹介はリンク先に任せるとして、全く知識のない人がざっくりと世界史の骨格を取り込む目的に特化した本だと思う。いい歳した大人なので、勉強するにも効率重視の選択肢を採れるし、下心のために知識や理解を追求してよいのだ。認知機能のダメージのために読書の速度がひどく遅々としていることについては、もどかしいというよりじれったく、悔しさを感じるけれど、そうした箇所をほかの者と比べることは不幸へ続く道だものね。自分になかった領域と構造が急速に広がる感覚については、たぶん知る楽しさというやつで、悪くないかなー。紅まどんながおいしい。

2021年1月2日(土)

父の墓と母方の墓へ、それぞれ母と墓参りをした。それはそれとして気分が沈み込んでしまう。母の見立てでは、僕が年末の大掃除を頑張りすぎたことで精神的な反動がきているのでは、とのことだった。そんな気がする。閉じこもって眠るがよかろう。

2020年12月31日(木)

ことしは精神的な過ごしやすさがいい感じに維持された年だった。映画を楽しむだけの集中力が戻ってきたようで、数えると30本を超える作品を視聴してる。観るエンジンそのものは梅雨のころに掛かったことを加味すれば、そこそこのペースで映像作品に触れていたみたいだ。四月のこと座流星群を見たあとは「詩も哲学も必要なんだ」というひらめきがあり、そこから詩のアンソロジーや哲学の入門書を細々と読んでいる。読書自体も幾年か前まではいったん没交渉になっていた趣味だったから、休みやすみとはいえ読むことを楽しめているのは嬉しい。どうしようもなくインプットが足りていないから、自分を潤す感じで作品を摂取できたら。関心領域を明確にしたり、来年の目標を十ばかり立てた中で、創作の足場を耕すことについてはとりわけリソースを注ぎたいところ。日常でできることも多少増えた気がしてる。なによりもよかったと思うことは、それなりな過酷さをくぐり抜けるにあたって、未来を望み前向きでいられたこと。それは身の回りの人々や環境にも支えられたように思う。きのうきょうだいと話し合う機会がありそれもよかった。社会に重苦しさはあるけれど、それはそれとして自分の生活/趣味/関心に進展を作りながら身軽になろう。そして家族のためには自分がまず衛生に気を遣いながら過ごしたい。……こうしたことを書けているだけ、ことしは内的な変化があったのだなということを、ここの大晦日の雑記数年分を読み返しながら思った。

2020年12月30日(水)

買い出しや居室の窓拭きに整理整頓が片付き、ことしの掃除もひとまず終わった。その勢いで『ランドシャーク/丘ジョーズの逆襲』を観た。のっけのビーチから映像も物語も雑で、それは終始一貫していた。陸を泳ぐサメが主題のはずなのに、その直接の映像は全く出てこない。映るサメもなんか雑なのだけれど、サメ映画は適当さが持ち味らしいから……。サメの血清とはなにか、白兵戦で初めて役に立つレーダー、意図不明な坑道のパートなど、多くの謎が明らかにされないまま物語は加速していく。持っていかれるにしてもその部位はただ下品でございました。雰囲気で説得されそうになるけれど、あの山荘が最終決戦の場という必然は別にないのだよな。そしてそのまま、物語は特に着地点を見いださないまま緊張感のあるスタッフロールへと持ち込まれた。終盤のサメ人間が相対的にリアルだったので、もうそのへんがオチでいいです。

2020年12月28日(月)

本棚の手入れ。文庫本を収納する本棚がもう一つほしい。容量は求めないから、背が低いかスリムなものがよいかなあ。漫画をボール箱へしまえば棚は二つ三つ空くけれど、うーん、どうしたものだろ。そんなことで悩む暇があれば積ん読を減らすのが最善だね。棚の分類ではっきりしているのは、新潮文庫/新書/SFx2棚/岩波文庫x2棚、といったあたり。今回初めて新書で一つの棚を割り当てることにした。本棚の整理はたまにやると自己分析や蒐集物いじりのようで楽しい。

2020年12月27日(日)

ことし最後の燃えるごみとして、物置から出たごみを日没後に回収場所へ出してきた。十五、六袋あったために車で二往復した。清掃センターに持ち込みたいごみはまだあるけれど、とりあえず物置は空にして床も綺麗にしたから、これでやっとものをしまい込める。洗面所の掃除を始めた先週の土曜からうちの掃除を続けていたため、母から少し休めと言われた。祖父宅の物置とうちの外の物置については、片付けるのは正月が終わってからでよいのではという話になった。あしたは散らかった物品を軽く整理して、元気があれば居室の手入れをしよう……。イギリスや南アフリカでコロナウイルスの変異株が感染を拡大していることから、日本はあす28日から一月末まで、全ての国/地域からの新規入国を拒否するそう。鎖国という言葉をTwitterで見かけた。その変異株が国内に拡散するのは時間の問題なんだろうなあ。大切な人たちが健康に過ごせることを願う。ともあれ喪中ではあるけれど、自分の生活空間をきっちりすっきりさせて新年を迎えるつもり。先輩から年賀状のお誘いがあり、いまは喪中ですけれどと住所を交換した。よさげな写真が撮れたらコンビニでポストカードを印刷して、季節の挨拶やこの十数年間の報告なんかを書こうと思ってる。

2020年12月26日(土)

ラジアンFを聞いて眠り、昼過ぎに起きてから母と物置のごみを清掃センターへ搬入した。あす夜にことし最後の燃えるごみを回収場所へ出せば、いま散らかっている物置掃除はかなりすっきりしてくると思う。ここへ越してきてから二十数年ものあいだ手つかずだった物置の物品は、今回の掃除で、おおむねが要らないものとして分類された。思い入れがあるならともかく、もったいないというだけで手元に残すのは止めようと僕が強く主張したこともあるし、それだけの時間を掛けなければ手放せないものも多かったかも知れないけれど。祖父の物置は年内にどうにかしたいものの、うちの外にある物置に手をつけるのは来年以降になるかなー。

2020年12月25日(金)

ことし最後の通院。浮き沈みなく過ごせた一年だった、治療してきてよかったと話すと、やっぱり最善のルートを通れる人ばかりではないから、いざというときに自分の判断だけでなく周りの意見を加味できるかどうかが大切だよね、と話してもらった。僕の耳には痛いはずだけれど、先生の話に実感がこもっていたこともあり、そうだなと思えた。それからうちへ帰って運び出したものの整理。ファンヒーター二台やオーブンレンジなどの不燃ごみを、家族と協力して清掃センターへ時間ぎりぎりに搬入した。ほかにも搬入すべきものがまだ残ってる。そちらの作業はあす以降の自分へ回すことにして、今夜は週末恒例のラジアンFを聞きながらこれを書いてる。金曜ロードショーのナウシカを観た。作品のなかの話ではあるんだけれど、終盤の展開で言い伝えというものがなぜ継承されるのかということを思ったら、ちょっと涙ぐんでしまった。例えば、ひとりの人間が朝起きてその日にすることを(思い出すみたいに)自覚するように、総体としての人類が持ち継承している直感や確信というものが存在して、それが言い伝えや予言というかたちを取るのかも知れない。それら直感/確信の源となる人々(の記憶)へ(想像力によって)近づこうとするとき、こちら(ババさま)の記憶が揺さぶられるのかも知れない。「その者……」と語る場面で、ババさまは語られてきたものだけでなく、語り紡いできた者たちの存在を感じ、その流れの果てに目の前の状況があると理解すればこそ、あれほど慟哭したのではないだろうか。大気中に満ちる王蟲の怒りを感じ取るくらい敏感な人なら、言い伝えを構成する時空の奥行きやその中で遍在する人々の思いくらい、経験と想像力で補ってると思うんだよね。そのへんの流れを一瞬に圧縮して発せられた言葉が「古き言い伝えはまことであった」だったらいいなあと、心許ない深読みだと分かっていても僕は思う。