2011年1月17日(月)

あれこれ思うが言葉にならない。

落丁の多い記憶
過去にいつかどこかで起きた出来事が、抄った砂が手のひらから零れ落ちるように頭から抜け落ちているのを近頃よく感じる。例えるならドーナツの真ん中に穴が空いていると認識しているような状態で、食べ終えてしまえばその穴さえ虚空へ消えてしまう。膨大な記憶の中に人は生きている、と言ったのは誰だったか。きっと、気張って過去なんか背負わなくても、どうしようもない昨日を笑って不確かな明日を信じて過ごせるなら、いつか訪れる断絶の時を怖れずに受け入れつつやっていけるなら、様々な流れの中へ其処に在った軌跡を残せるなら。それは決して空ろな一幕劇なんかではなかったと言えるはず、それなのに。
ひとりで在ること
学生の頃、所属していた経済研究サークルの同期の子から「君はとても鋭い」と言う風なことを言われた事がある。「人をとてもよく見ているね、でも自分もそんな風に見られているのかと思うと少し怖い」とも言われた。当時それが少し悲しかった。無意識のうちにコミュニティの輪から一歩退いた場所にいる自分を否応なしに認識させられた上に、悪意のないいささかの畏怖を纏った拒絶を感じたからだ。仲間と交わす議論は面白かったけれど、そんな輪の内で時折気付かされる孤独ってのは、雑踏の中でふと立ち止まる瞬間のように寂しい。いつしか僕は少しずつ同期達と距離を置くようになり、とうとう何も言い残さずにサークルと大学を去った。あの時分に感じていた孤独とは何だったのだろうと今でもたまに考える。
『……そのころぼくは二十歳だった。二十歳は退屈な年だ。若いというのはすくなく、苦く、うつろなことだ。その年で生きているのが楽しいという人間を、僕は信用しない。……』娼年(石田衣良 著)
一体、あの寂しさや空しさは若さにありがちなただの感傷だったのか。まさか僕はおセンチな煽りなどのために幾度も死にかけ彼岸を見たのだろうか。何れにせよ月日は瞬く間に流れ去り、現在の僕は程よい孤独に存外の居心地の良さを見出して、遠くなってしまった彼らの背中を時々振り返る。
若さの特権
mixiの出来婚バツイチなマイミクさんが、恋がしたい、とか、誰かと暮らしたくなっちゃった、とか、次の彼氏のスペック*女性向け診断なんて書き連ねている日記を読むにつけ、彼女の元旦那が引き取っていったという赤子の将来を案じてみたりするなど下世話な話で。
甘い水、辛い水
先日、死にたがってばかりの友人を突き放して批判した。僕は、親友ならば時として必要に応じ手厳しく接する事もあるのが健全な付き合い方だと思っている。けれどもそんな僕の声は鬱屈し過ぎた彼の耳には届いていないらしい。都合の良い馴れ合いや自棄っぱちの煽り合いは忽ち人を腐らせる。死にたいなら誰からも忘れ去られてからにしてくれと率直に言えない僕は甘いだろうか。そもそも僕に他者を批判する資格なんてあるのか。人はそれぞれ、なんて体のいい言葉に逃げるつもりはないけれど、彼が僕の言葉を受け入れないのならばそれも彼の在り方だし、少なくとも僕は僕自身の持つ善意好意義憤から彼に接したつもりで、そこには十分に確かな理解や道理などが欠けていたかも知れない。「人の友たるものは、推察と沈黙の、熟達者でなければならぬ」。ともかく生きていてくれ、いつか時が癒してくれるさ、なんて陳腐で残酷な神頼み。悲しいかな、沙漠を内に蔵する者は。人づてに頼まれてもいるけれど僕だけの力じゃもうどうにもならない。
昨今の視聴者の現実離れ
毎回必ず人が殺される刑事ドラマを見るのが楽しみな母の心の健康を密かに疑い始めた今日この頃。
何を見てもそればかり思い出す
ちょうど一ヶ月後が父の十三回忌にあたる事を思い出した。父は社労士を兼業する技術者であると共に君子蘭の栽培と品種改良に関するセミプロで、名もない新品種を幾つか遺し癌で逝った。その影響で僕は一頃、農学の道へ進んで雪割草の専門家になりたいと夢見ていた時期がある。昨年の盆、父の学生時代の友人が墓参りにやってきて、彼らが若かった頃の思い出話に花が咲いた。故人を忘れずにいてくれる人がいる。ありがたい事だ。膨大な記憶の中に人は生きている、と言ったのは誰だったか。父が二十年以上昔に興した会社も平成不況の波に攫われながらニッチな需要に活路を見出し今でも何とか存えている。様々な流れの中へ其処に在った軌跡を残して去った父は最期まで偉大だった。この時期の、肌寒く静かで眠れぬ今日のような夜に、あの頃の事ばかり思い出そうとしている自分がいる。
愛情の天秤
『セルロイドの人形に魂が入る事だってあるんだぜ? まして奴は脳医学用のデバイスを詰め込めるだけ詰め込んでるんだ。魂が宿ったって不思議はねぇさ』(攻殻機動隊 -GHOST IN THE SHELL-)
世の中のおそらく大多数の人々が彼らの家族や伴侶や仲間を大切に思うように、或いは養っている生きものを慈しむように、はたまた手間暇掛けた車やバイクに夢中になるように、それらと同じ重さで僕はただ、でっかいアクリルと綿のかたまり達を心あるものとして愛でているだけなのに。美少女フィギュアとやらに萌える事がもはやステータス化されようかという現代に於いて、片やぬいぐるみを抱かぬと眠れぬ厄年男の僕は馬鹿だ幼稚だ金の無駄遣いだと侮蔑されている。納得し難い。我が家とこの国の正義は一体これからどこへ向かうのだろうか。
それらはきっと等しく正しい
「欠落や喪失を糧としてしか創作ができない人種というのはいて、私もその類の人間です。」
「喪失を原動力にしている人間には何も期待してはいけない。どこまでも空っぽの思い出しか持っていないから。」
互いに面識のない、質の高い文章を書く物書き同士のこのように見事な意見の齟齬を見掛けて、僕は何かを喪失した事はあっただろうかと少し考え、ああ、喪失した事自体を喪失しているらしいからどうしようもないよねという割合楽観的な結論に達した。
唖の鴎はさまよいつづける
初め、このサイトを含めたWeb上での立ち居振る舞いに際して、はなからご大層な主義主張や動機などは持ち合わせていなかった。ただ、自分自身の存在の軌跡を確認出来て、その上で一握りの見知らぬ他者にそれを幾らかでも知って貰えたなら、そういうごく僅かな願望からWebの各種コミュニティに属している、というのはおそらく正しい。僕は少々退屈な僕だけに許された人生の暇潰しに耽っているばかりだから、残念ながらそれらはきっと「あなた」にとっては何の娯楽にもなりえないだろう。僕が自分の欲求に素直になればなるほどに、それらはより退屈で無感動で誠実さに欠けた見苦しいだけのものとなる、そんな確信めいたものがある。座右の銘の「欲望に忠実であれ」とはつまりそういう事だ。随分と身勝手で体の良い願望だと思っている。でも、「あなた」に迷惑を掛けるような事だけはきっと無いから、あったとしてもほんの僅かな間「あなた」の意識の隅っこを小川の朽ち葉のように流れ去っていくだけで、僕もそれで十分満足するし、どうか気に留めずに頂ければと思う。所詮は唖の鴎。沖をさまよい何を待つやら、けれども無言で、さまよいつづける。それだけの事。僕はいつでもどこでも何かしら、ささやかな希望を胸に待ち続けている。

2011年1月11日(火)

猫のサキさんお気に入りのブログを読んでいたところ、猫が部屋に入れろと騒ぎ立ててきた。毎度のことながらこいつは暇なんだろうか、いつも音楽の流れている場所が好きなんだろうか、とごちゃごちゃ考えながら招き入れてやった。猫は早速セミハイベッドへよじ登って、一瞬だらしなくぶらんと布団からぶら下がって、それから何もなかったような目付きでいるかときつねのぬいぐるみの脇へ陣取った。

この猫、名前をサキという。関西の方で学生生活を送っていたころペットショップで買ってきた猫で、子猫のころは良く懐いて寒い晩など一緒に布団の中に入れてやったりしたものだが、成猫になってからはなんとも素っ気ない性格に育ってしまった。大人の猫というのはみんなこうなんだろうか。

この文章を書いている最中にも部屋から出せとせがんだり、また入れろと騒いだり、気まぐれ一つで人を動かしている。僕は他人の気まぐれに付き合うのがおっくうな方なのだが、猫なのだから仕方がない。僕が晩ご飯に手を付ける時など、必ずヒーターの前からのそのそとやって来て、脇で黙って座っている。少しよこせと言いたいらしい。一緒に席に着いている家族に対してはそういう事をしないから、僕はガードが堅くないと思われているんだろうなあ。

話変わって、三月から簿記の資格を取るための学校に通うかも知れない。講座の案内パンフがそろそろ届くころだ。六月と十一月に試験があるらしいことはググってから知った。勉強するなら一発で受かりたい。勉強なんて大嫌いな僕だが、もうじきやらねばならない事も増えてくるだろう。今年の目標は少しずつのステップアップだ。

2011年1月6日(木)

病院へ行ってきた。木曜の診察は午前の間だけなので、少し急いで原付を飛ばす。

去年の年末に貰った新しい薬が僕の体には合わなかったので、余った薬を医師に返して変更して貰った。この新しい薬、いや、処方としては古い部類なのだが、少し多めに飲むと体中の腱が痙攣して異常な疲労感に苛まれるという事が二度あったので、もう三度は飲まぬと決意した。Webを漁っても情報があまり出てこないのであまり好まれる薬ではないんだろう。

病院を出て、ふらふらと百貨店へ向かった。ちょっと良いコーヒーを買う時はいつもここのKEYCOFFEEで買うようにしている。モカとトアルコ・トラジャを200gずつ、細かく挽いて貰った。

それから高級な紅茶とジャムを買った。ちょうどこの時期が母の誕生日にあたり、母は紅茶とパンが大好きで毎朝それを食すので、贈り物がてら渡すためだ。品の良い紙袋に移し替えて渡したのだが、気に入ってくれたかどうか。

昨日Amazonで歴史秘話ヒストリア オリジナル・サウンドトラックとKalafinaのstoriaを購入した。正月の夜、夜更かしをしていてふとつけたテレビのNHKで見掛けた歴史秘話ヒストリアという番組の曲がとても佳かったので思わず買ってしまって、改めて聴いてみるとやはりよい。梶浦由記率いるユニットのKalafinaというのが気になってstoriaというシングルも聴いてみたが、こういう雰囲気の音楽は非常に好みだ。調べてみるとニューエイジというジャンルに近いものであるらしい。リンク先のWikipediaにはお気に入りなピアノ演奏家の久石譲や坂本龍一などが並んでいて、ふむと思った。

以前の僕はピアノジャズやクラブミュージックに類するものを良く聴いていたのだが、いつしかいわゆるヒーリング、環境音楽や自然の背景音楽を転々として上記のニューエイジにたどり着いた訳だ。僕の友人の二人はギターをやっていて、彼らは自宅へ遊びに来るとロックの話題で盛り上がったりするのだが、僕はロックなんて全く知らないので「レッド・ツェッペリンって凄いのかい?」などと常識の明後日な質問で彼らを困らせたりしている。そんな風に偏った音楽の聴き方をする僕だからニューエイジというジャンルを知らなかったもの致し方ないのだが、この音楽の枠組みはとても広い間口を持ったものらしいので、少しずつ開拓していこうと思う。

話は変わるが、未だに僕はクラシック音楽を聴きたいという気持ちになった事がない。有り体に言うところのJ-POPもあまり好みではないから、カラオケへ連れ出される事があってもすぐに聞き手に回ってしまう。なぜだか僕は子供のころから定石や流行というものに疎く、たとえば小学校中級生のころ友達に貸して貰ったゲームボーイのポケモンが初めてゲーム機に触った折だったのだが、何が面白いのか分からなくてすぐに返してしまった。クラシックしかり、世間や世代の定石と僕の感性がずれているんだろうなあと思う。まあそれでも、自分一人で楽しむ事を知っているから僕はあまり悲しくはない。

カラオケで思い出したので書いておこう。関西の方で暮らしていた頃、祇園のクラブでホストのバイトをやっていた時期があった。バイトだからキャッチや接客より雑事を言い付けられる事の方が多かったのだが、お付き合いでトークをかましたり無理矢理カラオケを歌わされることも良くあった。女性客相手にはこれを歌っておけば満足してもらえるだろう、という流行歌のことなんて全く知らなくて、必死にうろ覚えの映画の主題歌とかを歌ったりした。流行後れで音痴なのをうらやんだのはこのとき限りだ。出勤で下宿先を出るのが午後七時、箱へ向かう道すがら必ずバーで一杯煽って、仕事が終わり自宅へ帰るのが午前八時。シャンパンコールなんか日常茶飯事だったからしばらくして肝臓を壊しかけてバイトを辞めた。ただ、一人だけ僕を直接指名してくれた人がいて、その人とはしばらく交流があった。真面目な事にも耳を傾ける人で、その人の家に遊びに行った時にはうさぎを飼っていた記憶があるが、今は何をしているんだろうな。クラブの先輩たちも体育会系の一匹狼ばかりで厳しかったけれど、面倒見が良くて優しくもあった。みんなみんな、今頃何をしているだろうか。

2011年1月1日(土)

玉藻稲荷神社で年越しをした。正確には家を出る時除夜の鐘がなっていたので、新年を過ごしたと言うべきか。

稲荷では割合大勢の地元の方々が集まって、飾り物の熊手等を売ったり焚き火で暖を取ったりしていた。ライトアップされた社殿へ上って、お賽銭と二礼二拍一礼。賽銭箱の脇には油揚げやお酒が供えられていた。

お守り昼過ぎ。家族の用事で出掛けたため、ついでに那須神社へ寄る事に。那須神社の隣の道の駅は休みだった。かき入れ時なのになあ……市営だから商売ごとに熱心でないのだろう。

那須神社は人でごった返していた。並んで待つ事しばし、やはりお賽銭とお礼をして健康を祈る。脇におみくじがあったのでやってみた。中吉。病気は「長期になるかも知れないから用心すべし」と書かれていた。近くの綱に結んでおしまい。

少し戻ったところでお守りや甘酒を売っている広場へ。上の写真のお守りを買い、甘酒を貰って焚き火に当たる。しみじみと暖かい。そのうち甘酒を飲み干して紙コップを火に投げ入れ、燃えるところを眺めていた。

その後買い物をしてうちへ帰ってきた。何事もなく過ぎていった元旦だったなあ。今年は平和な一年になりそうだ。

2010年12月24日(金)

また五峰の湯行ってきた。休憩所の自販機でドクターペッパーを三本買って持ち帰ることに。

週替わりなので男湯と女湯が入れ違っていた。今週の男湯の方が露天風呂は格段に広い。正十二角形らしい檜枠に両腕を預けて風に当たる。これがすこぶる気持ちよい。他の入浴客が上がって一人きりになってから長らく、ぼーっと露天風呂を貸し切りにしていた。こちらの風呂の壁にはどの向きが那須連峰のどの山だとかの案内板が張り付いている。興味が湧かなかったのと移動するのがめんどくさかったのとで良く見もしなかったが、だいぶ細かい解説が付いていたっけ。

先日、この日記兼雑記の左枠の一言板に佐久山のきみのゆへ行ってきたと書いたが、施設の雰囲気と泉質は五峰の湯の方が個人的に好みだ。地元用語で言うと「なめっこい」湯、ぬるりつるりとした湯の感じは五峰の湯ならではなのだろう。佐久山温泉きみのゆの雑然とした賑わいと比べると、五峰の湯はまったりのんびりしていていかにも地元らしい。先だっての日記の写真のランキング、あれだけを見ると五峰の湯はちょいと垢抜けてない勢いだが、入浴客の絶対数が佐久山温泉の方が多いから票も伸びているのだろう。

二つ忘れていた。きみのゆの満足度が高いのは浴場の施設の充実度も大きいのだ。電流を流してマッサージするらしい電気びりびり風呂が大浴場の端に二人分あり、入ってみると非常に痺れるのだ。好んで入るお客も入るようで、僕がああ~と痺れている目の前でふう~とため息をついて電気びりびり風呂に浸かる人がいた。個人的にはあまり気持ちよくない、というか非日常的感覚の違和感まみれの風呂なのだが、お年寄りのツボを刺激するのにはむいているらしい。それときみのゆにはサウナ風呂がある。入れてせいぜい六人程度のひな壇式サウナ風呂で、なにやらサウナ風呂向けらしい十二分時計が目にとまった。僕は先日が初めてのサウナ体験だったのだが、とにかく汗をかく事著しい。十二分も経たないうちに撤退。サウナ室を出てからまっすぐ露天風呂に浸かり、表の風の爽やかさを実感した。

もう一つ忘れていた事、大田原市の温泉パンフには五峰の湯ともう一つ、湯津上温泉やすらぎの湯というのがあるのだ。湯津上方面へ出向いた事はあまりなく、温泉のある事も知らなかったが、パンフでプッシュされているなら行ってみるのも良いだろう。休業日が毎週月曜日、第四火曜日、年末年始とあるから、今年のうちに行くとすれば明後日までだ。お天気と気分が良ければ行ってみようと思う。

それから。大田原市に住んでいて大田原温泉(太陽の湯)へ入った事がないというのも何だかなあという感じなので、これは近々気が向いた時に出向いてみるつもりだ。上のリンクから飛んでいける大田原温泉のサイトには地域のイベント情報が割と頻繁に更新されているので、要チェックである。

ハクチョウ五峰の湯の帰りに羽田沼へ寄った。ハクチョウがやってきているという話を大分前に聞いたのでもう大勢いるのかなと思ったが、羽の薄黒い一歳になったばかりの子供を含めて十羽ほどしかいなかった。大勢のカモや名前の知らないのに混じってぽつねんと浮かんでいる。眺めているうちに合図したようにハクチョウの群れが一斉に滑空していった。柵の手前には大砲みたいな迷彩を施した一眼レフカメラが三脚の上で異彩を放っていた。休憩所から談笑が聞こえてきたから、近所の人なのかも知れない。最盛期には千羽を超えると言うからその頃また羽田沼へ行ってみるつもり。市の反対側の琵琶池にも少数ながら飛んでくると言うから気にとめておこう。

2010年12月17日(金)

今朝、なんだか寒くて目が覚めた。室外の温湿計を見ると摂氏二度。タイマーを掛けておいたはずのエアコンは動いていない。お布団の中でもそもそやって、きつねのでっかいぬいぐるみに抱きついているうちにしっかり目が覚めてしまった。

今日の予定は銀行にお金を振り込んでくること。先週にf-planning フリーピストン空き缶スターリングエンジンというサイトからスターリングエンジンのおもちゃを購入したのだが、その支払い用紙の期限が今週いっぱいだったのでぼちぼち出掛けることにした。今朝みたいな寒い思いをするくらいなら代引き支払いにしておけば良かった。

ちなみに販売しているこのスターリングエンジンは半分完成品、つまり組み立て式となっている。用意するのははさみとセロハンテープくらいだが、ただでさえ繊細なこの手の機械を手のひらサイズにまで縮めたのだから、組み立てには結構な注意を要する。スターリングエンジンのおもちゃおまけに僕の組み立てたエンジンは外付けHDDの熱くらいでは動かなかった。取説には熱いお湯を注いだカップの上に乗せて~等と書かれているがそれでも動かない。たぶん部屋の空気温度も重要なのだろう。シリンダーの輪ゴムの取り付け位置を調節する必要があるのかも知れない。いずれにせよ僕のスターリングエンジンは今、鏡餅のようにHDDの上で鎮座在している。この形式のエンジンが黒ダイヤの時代の中にあって廃れていったのも頷けるほど、非力だ。

話が逸れたが、朝っぱらのひりひりする空気を突っ切って、まず近所の公園に出向いた。昼寝なのだ。朝寝でもある。どちらにしても日光浴である。これをすることは現代人が毎朝携帯電話の充電器を弄ることと同じくらい重要だ。本日は晴天、風も弱く日光浴に向いた天気であった。が、僕はこのごろお日さまの力が弱くなっていることを実感している。冬至に近く日差しが低いからだ。午前中でもあるし。芝生に寝転がったのは良かったが、さして経たないうちに気分が変わり近所の古本屋へ向かった。

古本屋では爺さんがひとり奇声を発しながらうろいていた。あまり居心地は良くない。昔読んだドイルの「四つの署名」等のお会計を済ませて早々にTSUTAYAへ移動した。人も多く雑然とした空気だがこちらの方が気分がよい。季語集と漫画の続き物を幾つか購入。以前この日記で単巻ものを好んで読むと書いたが、面白そうなものならその限りではない。それと僕は夏の歳時記を持っている。ただ、一年の四分の三を追憶とあこがれに生きるのは厳しいのだ。夏しか詠めないというのもちと寂しいものもある。そんなわけで、元来共感能力の低い僕だが、割と仕方なしに目にとまった季語集を買ってしまった。

本屋から銀行までの道は一直線だったはずだ。あやふやな記憶を頼りに原付を飛ばしたが、目当ての銀行は見つからなかった。おまけに、違う銀行店内に入ってからスターリングエンジンの払込書が郵便局のものだったことに気付いた。鈍くさい。町中を突っ切って郵便局へ。しかし、郵便局内のATMで今度はカードが使えなかった。忘れていた、このカードは傷を付けたか磁石を近づけたか何だかで以前から使用不可になっていたらしいのだった。窓口で依頼するとATMより手数料が少し高く付くという。面倒くさかったのでそのまま支払いの手続きをした。ああ、こうしているから使えないカードをいつまでも財布に突っ込んでいるんだな。

たったひとつの用事も済んだので喫茶店・茶羅へ寄った。喫茶店本を買った日は割合よくこの店で読書することにしている。頼むのは大抵アレンジコーヒー。この茶羅で使っている美味しい生クリーム、いつか、どこのものを使っているのか聞いてみたい気がする。今日頼んだのはアイリッシュコーヒー。冷たく濃いクリーム、熱々のコーヒー、底にざらめ糖がたっぷりと入ったこのカクテルは実に僕好みだ。お日さまの差す席へ着いたのは良かったが、写真を撮る時逆光になってしまった。しかしながらこの茶羅はよい。オーナーが趣味で経営しているといううわさ話を小耳に挟んだことがあり、僕はその趣味に四つ星の評価を付けたい。五つ星でないのは日曜が休店日だからだ。のんびりページをめくって、時折コーヒーを啜って、適当なところで時間を見計らって店を出た。

体を壊してからというもの、寒さに触れる折々に体の末梢神経がぴりぴりと痺れを起こしたものだが、今日の帰り道もこの季節も何事もなく、どうやらことは快方へ向かっているらしい。この寒さの中、羽田沼のハクチョウがすでに飛来しているとのことなので、そのうち見に行こうと思う。

それから。このサイトの更新情報をRSS(XML1.0)形式で公開することにした。不定期更新の為にいちいちこのサイトに来る手間が省けるので、興味がおありの方はリンクから巡回してみるのも良いかも知れない。

2010年12月10日(金)

以前の日記で「温泉に浸かりたい」と書いたが、今日はその温泉へ行ってきた。大田原市黒羽の町営温泉、五峰の湯だ。

国道294号線沿いに「くらしの館」という観光施設がある。そこの十字路をローソン側に折れ道なりに行くと、三つ目の交差点辺りに小豆色した「五峰の湯」というのぼりがいくつも立っている。のぼりの連なる右手へぐるっと曲がり行った先がそこだ。市営バスも出ているらしい。JR西那須野駅東口から乗る市営バスの終点が五峰の湯、とのこと。温泉スタンドというのもあり、五峰の湯駐車場脇のスタンドで10リットル10円で販売されている。僕が来た時も帰る時も、それぞれ違う軽トラックがお湯を積んでいる最中だった。

入浴料というか施設の利用料金は大人ひとり五百円。ちょっと高い気もするが、施設全体の利用料だと思えばいい。レストランや農産物の直売所も施設の一部であり、他に大広間二つとその間に自販機やマッサージ器などの置かれた休憩所がある。

まあなんだかんだ言いつつ男場に入った。更衣室は割合の清潔感でドライヤーが置いてあった。写真を撮れなかったのが惜しまれる。コインロッカーで着替えて浴場へ。

まずはお湯をかぶって体を洗い、大浴場へそろそろと入る。このお湯、ぬるっとして粘性を帯びている気がする。pHが高いのでこう感じるらしい。パンフレットには「肌触りが非常に滑らかで皮膚に良いことから、『美人の湯』と呼ばれ大変好評です」とあった。熱さも適当で良い感じだ。ちなみにパンフには「男湯と女湯は一週間のローテーションで入れ替わります」とある。今回、ジャグジーがあるのは女湯の方だったらしい。些細なことではあるが。

洗ってさっぱりした頭の中で樋口了一の「1/6の夢旅人 2005ver」を口ずさみながら、のんびり湯に浸かった。温泉の宿命なのか田舎の早朝だからなのか知らないが、大浴場にいる人たちは10人強、大体60~70代のじいさんばかりのようだ。見れば裸で大浴場の外へガラス戸を通って出て行く人がいる。露天風呂というのはあれのことらしい。急ぐ必要もないからボケッとガラスの向こうの空を眺めていた。

んで、那須連峰を臨みつつ風に当たりつつ湯に浸かるのも良いかなと考え始め、だんだん上せてきたところで湯を上がった。前を隠さない男気溢るるおっさんもいるが、僕には真似出来ない。あまりしたくもないのが正直なところだ。とりあえずぺたぺたと露天風呂の方へ歩いて行った。

二重のガラス戸を開けて出たところで、隣のやはり露天風呂からわしわし響く声が聞こえた。おばさん連中がお喋りに花を咲かせているらしい。こちらも壁一枚隔てた露天風呂に入って浸かった。表の空気と風がぴりっとして気持ちよい。この風は那須の茶臼岳から吹いてきたものであろう、と勝手に決めつけた。植え込みのために男湯の方からは山が見づらいのだ。そのうち風呂の縁、木枠の角へ移動して、腕を広げて乗っける形でくつろいだ。相変わらずだみ声が届く。幸せな人はそれに気付かないからいけないだとか、うちの亭主の遺言がとか、日本人は金かねカネだ、とか。かわってこちらの露天風呂は静かである。男同士の静かなる連帯感である。

おばさん連中の幸福と人生論をぼんやり聞くうち頃合いを見計らって、連れのじいさんへ先に上がるよ、と言い残して出て行く中学生かそこらの子に続いて湯を出た。もう一度シャワーを浴びて体を拭き、更衣室へ。服を着替えてドライヤーを借りる。先月髪を切った折に縮毛矯正を掛けた髪なのですぐ乾いた。どうでもいいことではあるが、僕の地毛は猫っ毛で癖毛なのだ。ぼさぼさ。だから普段の風呂上がりは髪全体がうねって毛先も跳ねる。面倒くさいのでひと月とちょっと前、担当の美容師さんにストレートにして貰った。この美容師さんからは健全な肉体の維持の仕方を教わり、現在実行している最中である。じきまた散髪しに行くから少し驚いて貰えるだろう。

男湯の暖簾を再びくぐり、休憩所でドクターペッパーを買った。この癖の塊のような味がたまらなく好きなのだが、その辺の自販機ではあまり置いていない。飲みながら大広間の空いているテーブルへ移動した。見ると通路の突き当たりの奥の方にレストランがある。ちょうど昼時だし、ということで、飲み終わってからそちらへ赴いた。

山菜そばレストランは小さくて空いている席も一つだけだった。掻き込み時と言うことでおかみさんも忙しなく動き回っている。メニューを見ると、鮎の定食は4~10月までとなっていた。海鮮丼などはお高い。チタケそば・うどんというのは美味しそうだが旬のみの販売となっていてこれも高い。結局、山菜そばを頼むことに。待っているうちにおばさんの二人連れが空いた席を探していたので正面を譲った。

程なくしてそばが運ばれてきた。お先にと言って啜る。問題なく美味い。ちびコウを取り出して写真にぱちり。

腹八分目ほどに満たされたので席を離れてお会計へ。650円。ごちそうさまと言うと「どうも~」と返ってきた。先ほどの大広間のテーブルに戻り、その辺のおっさんたちの真似をするように横になってMP3プレーヤーを掛ける。こういうのはのんびり出来て良い。

ランキング壁に張ってあるポスターや広告、雑誌の切り抜きを眺めているうちに面白いものを見つけた。栃木県内の温泉施設の充実度、接待の様子、泉質をそれぞれ数値化して並べたもので、ここ五峰の湯の充実度は県内6位とある。誰が投票してるんだろうと思いながらこれも写真に撮った。

お金を払ったとはいえ、いつまでもだらだらしている訳にもいかない。そろそろ行くかと受付を出て駐車場へ降りていった。

民家 かご帰り際に「くらしの館」へ立ち寄った。今は季節を外しているがこの近くには黒羽の観光やなもあり、そこそこ賑やかなところである。くらしの館そのものはわらぶき屋根の民家を改装して無料で開放しているもので、その隣にふるさと物産センターという直売所がある。ここは朝九時から夕方六時まで営業していて、第二第四木曜日が定休日。一通り家の中を見て回って、千歯扱きやら何やらの昔の農具も見学してから帰途についた。うむ、今度また温泉に行きたい。

2010年12月9日(木)

今日は何事もなく過ぎていったので、前々から誰かに紹介したいと思いつつ叶わなかった本の紹介をしたいと思う。

九龍城砦 – 宮本隆司(著)

この「九龍城砦」は、159ページに及ぶ九龍城砦のかつてのありのままの姿を写した、宮本隆司氏によるモノクロハードカバーの写真集だ。僕が語るには物理的にも存在としても歴史的にもあまりに大きすぎて言葉にならない。以下、抜粋した文章と写真。これを見て読んで、本を直に手にとってくれる人がひとりでもいれば僥倖だ。

消滅した都市──宮本隆司

九龍城砦が消滅した。……

九龍城砦人間は時に、まったく想像を絶するものを作り出すものだ。九龍城砦は、国家と国家の狭間にあって、幾多の偶然の重なりで出現した都市であった。……

九龍城砦は、中国人の集合的無意識の巨大な結晶体なのだ。たまたま私たちの目の前に立ち上がった、奇跡のような、人類の営みの類いまれな超絶現象でもあった。

九龍城砦は、今世紀最大で最後の迷宮だった。……いずれにしても、九龍城砦は消滅してしまった。すでにこの地球上には存在しない。汚濁と苦悩にまみれていながら、どこか崇高で孤絶していたもの。その深い闇と混沌を直に見ることは、もう永久に不可能なことになってしまった。九龍城砦は、人々の記憶の中でのみ永久に生き続ける伝説の都市となったのである。九龍城砦

巻末の方に荒俣宏氏によるテキスト、「九龍城砦 最後の迷宮」と大橋健一氏の解説「九龍城砦の歴史」があるが、前者は現地からのレポート風になっているため、実際に読んで味わって貰いたいと思う。後者を抜粋。

九龍城砦
龍城砦――香港啓徳国際空港の北西数百メートルに位置するこの2.7ヘクタールの空間には、「魔窟」、「東洋のカスバ」、「犯罪の巣窟」等々、ありとあらゆる負のイメージが長きにわたって付与され続けてきた。この空間を埋め尽くしていた約500棟にものぼるといわれた不法建築群の取り壊しがすべて完了し、公園として整備された今日においてもなおそのイメージは人々の間に流布している。……

……

九龍城砦九龍城砦が好都合であったのは、少しでも安く住める場所を求める一般の難民にとってばかりではなかった。中国の社会主義化に伴って活動に制約を受けるようになった黒社会は、地元香港の黒社会と結託し、この九龍城砦を活動の拠点とした。1950年代から60年代にかけての九龍城砦には、その後の九龍城砦をめぐる「魔窟」伝説を構成する賭博、麻薬、売春などが存在したほか、これらの客寄せに行われたストリップショーや香港では禁止されている犬肉料理店もあったという。しかし、これらの存在が可能であったのは、必ずしも九龍城砦がもつ政治的真空地帯としての無政府性、無法性そのものにのみ由来していたとは言えない。実際には、賭博、麻薬、売春などは、当時九龍城砦の外にも存在していた。むしろ黒社会が、九龍城砦のそのような特殊性に目をつけ……

九龍城砦……この間、九龍城砦の人口は増加を続けてゆく。1950年代初頭、数千人であった城砦内の人口は、60年代までに2万人を越え、82年に「街坊福利事業促進委員会」が行った調査では、約1万2千戸、約四万人にまで増加している。同時に、50年代当時は、木造バラックや木造、石造の低層家屋によって構成されていた九龍城砦は、60年代に入るとコンクリート化、高層化し始め、60年代末から70年代にかけて何度も建て替えられながら更に高層化し続け、80年代までに最高16階建ての高層ビル群がほぼ空間を飽和状態に埋め尽くすに至った。……

九龍城砦……九龍城砦は決して社会解体の進行という意味でスラムではなかった。劣悪な居住環境、外部に流布するダーティーイメージとは裏腹に、そこには政治的真空地帯としていずれの政府からも干渉を受けないが故に自律的に形成された特異なコミュニティが存在していた。……

九龍城砦 九龍城砦しかし……1991年10月から93年3月まで3段階にわたって行われた立ち退き作業の後、九龍城砦はわずか10ヶ月で解体された。

1995年、九龍城砦の跡地には、中国伝統様式の建物を配した公園が完成した。ここには、1843年頃に城砦内に兵舎として建てられ、その後立ち退き作業開始の間際まで老人センターとして使われていた建物が改装され、”歴史的建造物”として残されているものの、激動する戦後香港社会で人びとの生存への意志の結晶として出現したあの特異なコミュニティについて記憶を辿れるものは、何も残されてはいない。(大橋健一)

「汚濁と苦悩にまみれていながら、どこか崇高で孤絶していたもの」との言葉そのもの、それがたぶん「九龍城砦」だ。本屋で見掛けた折には是非手に取ってみて欲しいと思う。

2010年12月6日(月)

日常のことごと。

最近僕は昼寝をするのが日課になっている。主に午前中、あちこち近所の公園に出向いてお日さまの光を浴びながら芝生に転がるのである。これは僕があまり仕事とか収入につながる事に熱心でないから出来る事だ。先月十一月の頭から始めた習慣だが、曇りや雨の日を除いて概ね続いているところを鑑みるに、これは僕にとって良い事だ。寒い日もあるが、日差しは柔らかい。不審の目で見られない程度に続けようと思う。

古本、というか漫画なのだが、百円の中古本を集めるのに凝るようになった。僕は好みにうるさい。色々な欲求を出来るだけまっすぐな形で発散しようと心がけているからだ。わがままとも言う。その中で、近頃見つけて当たりだと感じた漫画。

Amazonへのリンクをタイトルに張っておいた。「できそこないの物語」の第四巻はAmazonで注文し、明日郵便で届く手はず。まだ読んでいないという事なのだが、これはストーリーがおもちゃ箱をひっくり返したような適当さで展開されていて非常に面白いので、扉絵が好ましければ即買いである。「こころ」はかの夏目漱石の作品を現代風にアレンジしたもの。小説と併せて読むと非常に分かり易く奥深い。どの漫画も世界観が明瞭に組み立てられていて割合短く程よくまとまっているが、中でも榎本ナリコ氏の作品はいずれも安定感があり読んで損はしない。まだまだ中古漫画を発掘中なのでこれからも良いものが見つかるかも知れない。そのときは気が向けばここで紹介しようと思う。

先日百貨店でコーヒー豆とお酒を買った。トアルコ・トラジャとモカで迷ったが結局モカ。一応コーヒーミルはあるが、面倒くさいので挽いて貰った。中挽きで少し後悔。僕は細挽きで濃く淹れるのが好きなのだ。ここのコーヒーショップはKEY COFFEEなので、僕が昔から集めているUCCのクーポン券は集まらない。UCCのカード券も持っているのだが、これは期限が切れてしまった。お酒はベイリーズ。三本目である。

こう書いていると僕は何にも考えていないようだが、創作小説のネタで少し悩んでいる。僕は常に三話ぶんローカルに書きためておいて前の一話をアップロードするので、四話ぶん先の話の流れが決まらないのだ。まだアップロードしていない三話ぶんもごちゃごちゃと書き換える。まあ、ラストの描写はすでに決まっているのでそこから逆に繋げていこうかと思う。今のところ二話分の題名は決まっていて、04「ものごとを決めるために必要なこと」と05「それぞれの時の流れ」。お絵かきウサギはガラスの人魚をありていの人魚に還す魔法を訊くために魔法使いの事を追っている、という感じ。ちょいと科学文明の描写も。

それと「Info」の項目にTwitterへのリンクを足しておいた。かといって何かあるわけでもないのだが、とりあえず。

2010年11月30日(火)

大田原市の諏訪神社と不退寺の薬師堂行ってきた。どちらもこまめな手入れが行き届いているようで好ましい。

諏訪神社諏訪神社にはいわゆる大東亜戦争で亡くなった戦没者の慰霊碑がある。……と知ったのはこの神社を一巡りしてみたときで、先日の雑記の戦争つながりで書くのにちょうど良いからここにピックアップしてみるだけだ。時代は昭和十四年八月の北支那から昭和二十年の九月シンガポールまで、没年は二十一歳から三十一歳、十一名の名が掲げられている。若い。僕と同じくらいの年頃だ。言葉にするにはちと重い。灯籠

諏訪神社は大田原自然遊歩道の第五コース、ホロの碑と境の松との間にある。都市計画道路三三一号線(国道四百号線)のたいら屋前交差点を南側に折れ、道なりに数百メートル程行った右手の杉木立だ。下枝が払われて道沿いからも社殿が覗けるので行ってみれば簡単に分かる。

諏訪神社を後に不退寺薬師堂へ向かった。大田原の旧中心街、与一通りというのだったか、その通りの突き当たりに薬師堂はある。蛇尾川方面から蛇尾橋を渡ってまっすぐ商店街を行けば正面に参道と大銀杏の木がある。ちょっと言うと、先ほど触れた諏訪神社の道沿いにも大銀杏があり、こちらの方は杉林に囲まれていて紅葉の季節以外はあまり目立たない。どちらの銀杏も樹齢は分からないが同じくらい背が高く立派だ。

一面の黄色薬師堂は参道の辺り一面に銀杏の黄色をまき散らして佇んでいた。雲一つ無い晴天のもと、その黄色が眩しく染み入る。通りかかったおばちゃんとすれ違って挨拶。案内板に有形文化財の文字があり、寛永年中(1624~1644)ごろ大田原氏によって建立とある。先日の雑記の経塚稲荷神社と成立した時代が重なるあたり、この時代の大田原(大俵が語源とも言われている)は城下町・宿場町として大層繁栄していたんだなあと思う。それを象徴的に表していたのがいつぞやの金灯籠なのだが、金灯籠そのものはこの雑記に書いたとおり旧市街地の活性化のための家屋解体とビル建築にあたり場所を移されてしまい、今では街の交差点の読み仮名にその名がただ残るばかりだ。

幾つかの案内板を巡って回るうちに面白いものを見つけた。「大田原の盆おどり唄」というもので、昭和53年9月7日選定とある。この盆踊唄は毎年八月の与一まつりで行われている盆踊りだ。以下抜粋。……大田原の盆おどり唄の起源についてはつまびらかではない。発祥の地は下町(中央二丁目)薬師堂の庭とも言われている。……唄の節回しも田舎節から都節に変わり、音楽的に統一性を欠くが、一種独特で他には見られない節回しである。……大田原の盆踊り唄は残り少ないふるさとの盆踊唄の一つである。……

薬師堂では冬の間に甘茶を振る舞うイベントがあるのだが、詳しい日程を失念してしまった。下町のささやかなお祭りだから見逃してしまうかも知れない。花市の頃だったかな。まあ出会えたら幸運、位に思い留めておこう。

話変わってメールアカウントの掃除。今使っているメーラーはnPOPQというもので、これがシンプルで使いやすいのだが更新停止からずいぶん経つソフトだ。今日はWindows Liveメールを使って、普段特に巡回していないアカウントも含めてお掃除とバックアップを取ることにした。未読メールが1037通、そのうちYahoo! アカウントの広告とSPAMが半分。ネット記事の定点観測をしているGmailアカウントを読了にして、私用でいくつかメインで使っているZenno.comのフリー・100円メールの容量確認やら細々とした調整。Zenno.comのWebメールは出先で使うのにもってこいなので重宝している。ぷらメールは仕様が複雑なのでメーラー側で振り分け。nPOPシリーズの当初の目標はフロッピーディスク一枚に収まる簡易メーラーだったらしいが、今ではWebメールやUSBメモリと言うものがあるし、しかし使い慣れたアプリを手放すには少々惜しいということで、現在から当面の間はこのnPOPQとカスタマイザひとつでやっていく事に。なんとかバックアップも取ったし、メーラーも定常運転へ。

Webを検索していて、昔の大学の先輩を見つけた。サークルが同じだったので何度か世話を見てもらった事がある。セミプロのアコースティック・ギター弾きの方で、こちらのYoutube – 「風を誘う少女」は昔、その先輩から200円で買ったオリジナルCDに収まっているそれのバージョン違いだ。とてもいい曲なのでもっと他の人に聴いて欲しいと思う。こんなWebの片隅からだが一応、エールを込めて。