2024年7月22日(月)

梅雨明け十日の炎暑。すでに最高気温近い朝から道の駅の産直で野菜を仕入れ、昼になりそれらで次々に焼きびたしをつくった。汗みずく。あまりに暑いとあえて夏らしいことをしてはという色気じみたものが顔を覗かせるのだよね。原付で移動しつつ浴びる大気は意識が若干もうろうとする感じで、昼過ぎの太陽は七月らしいまばゆさだった。八月に入ると日差しには熟れた感じがでてまた別物になってくるから、こうしたいまを味わうのもそれはそれで季節感のあることかなと思う。なんとなく過ぎし日。

2024年7月21日(日)

日がな一日ぬいと机の前で過ごした。表に日差しが照りつけるあいだは冷房を効かせ、積んでいた印象派の画集や世界の貝の写真集をめくったり、窓から木々の姿や流れる雲を眺めたり、くちなしの花をまた摘んできたり。日が落ちるころには夕餉を食み、そのあとはランプの灯りの前でのんびり。こんなふうに毎日を過ごしたいなあと思える、おだやかで心地のよい一日だった。とくに完璧というわけではなく、ネガティヴな思考はちらつくんだけれどさ。これは満たされていると呼ぶものだよ。壁に貼ってあるポストカード類のほかに、なにか飾る絵があるとよいな、なんて考えたりしてた。

2024年7月19日(金)

昨晩体調を崩して低調なところからの通所。午前中は前からの読みさしだったジェイムズ・ヒルマン『魂のコード』(鏡リュウジ訳、朝日新聞出版)を読み終えた。ひとには一粒のどんぐりのようなものが備わっている、という理論の話。どんぐりのほかにも魂、ダイモーン、守護霊、召命、運命などなど呼び方はさまざま。そうしたそれ以外のものでは語れない「それ」について、遺伝子のコードを読み解くように理解を試みるための本、でよいのかな……。科学や心理学からも、宗教からもほどよく距離を置き、そのあいだを通るためにふんだんな神話のイメージを用いる内容だった。なんとか読めたけれど、この「どんぐり」という考え方をじぶんの言葉に置き換えるのが難しい。訳者あとがきにて「役に立つ本ではない」ということが書かれているし、こうした本は読んだあとからゆっくり滋養になっていけばよいよ。午後はP検のまとめと、そのあとに評価面談。さいごのがなんか疲れた。情報共有やすりあわせ、現状認識や期待、今後の方針などを決められた時間で行うのはまあ、疲れるよね。とりわけストレス源から距離を置いた三つの件について話すことが効いたような。体調のわりには集中力が続いたことも影響したと思う。気に入っていたボールペンのJuice up 04がインク切れになったため帰りはTSUTAYAでそれを買い、帰途。あしたは午前中だけ通所すればしばしおやすみなので、日付を越える前にベッドへ入ろう。みんないろいろなものを抱えていると思うのだけれど、じぶんがじぶんであることを妬まれかねないような場、些細と思えることでも「恵まれているのでは」「そうであることを出してはいけないのでは」と感じるような場については、すべきことをして予定通り通り抜ければよいのかなと思う。

2024年7月17日(水)

雨がちな日。あすは通所や面談があるからと、たまっていた洗濯ものを回したり、念入りにストレッチをしたり、乾いたシャツにアイロンを掛けたり。日々の生活のこまごまとしたタスクは網となって強いレジリエンスを構築している、そういう投稿に納得するところがあるなあということを、上向いた気分のありがたさとともに感じる。いくぶんのゆとりを持って夜の庭を前に過ごすうち、夜空から旅客機の音が落ちてくるのを久しぶりに聞いた。聞いたというか気づいたというか。こうした感覚の広がりはじぶんにとって気持ちの余裕のバロメーターなんだなーとぼんやり思いつつ、さらに耳へ届くかえるたちの声や、急に濃くなったかのような雨のにおいを感じ取っていた。今夜みたいなくつろぎかたからはしばらく離れていたみたいだね。

2024年7月14日(日)

雨がちな日。久しぶりに道の駅の産直を覗いて旬の野菜を手に入れ、それで焼きびたしをつくった。ヤングコーンの美味しさよ。じぶんは対人面において鈍感すぎるというか抑制が働き過ぎるというか、問題を直視できず容認する傾向にあるので、違和感や嫌悪感を払拭できなくなっているなら客観的に見てよほどの状態なのだろなと思う。そんなふうに経験の積み重ねもできているし、この「感じ」で決断してもよいお年頃なのでは。空いた椅子には誰かが座るよ。

2024年7月13日(土)

買い物へ。レジのかたから、なにかお店でもやってらっしゃるんですか、と訊かれた。おしゃれですねとのことで、褒めていただいたことの突然のうれしさ。この言葉はほかの場所でもいただいたことがあり、どんなお店のイメージなんだろうと逆に不思議に思ったりもするのだけれど、そうしたことを質問で返すのも変かなと当たり障りのない会話に終始してしまうのだった。ある意味で浮いているのかもしれない。いまはむしろお仕事がほしい立場なのだよねえ。日没後、暗くなった庭を前に風を通しつつ夕餉を食んでいると眠気がやってきた。床でひとときまどろんだりするうちこれはお布団へいく眠たさだと思い、そのように片付けをしてこれを書いてる。眠れるありがたさ、気持ちよさ、憩いとしての夜、そうしたことはどれだけ慣れてもわざわざ立ち戻ってきてかみ締めるのだろうと思う。うとうとしつつ気持ちはおだやかという夜があり、気まぐれなそれは一日の終わりを甘い余韻で満たしてくれる。