2025年5月7日(水)

午前中のみ通所。面談の時間をつくってもらい、圧をかける相談員のひとを変えたい旨伝えたところ、「ですよね」とそのようになった。話が早かった。それからこちらが希望している求人リストの件になり、図書館その1はすぐには決まらない状況なこと、園芸店その1はほかのスタッフさんが問い合わせ中なこと、優先順位の高かった美術館その1はこのあと連絡しましょうということに。アートに造詣が深い現担当さんは、芸術家の名前にピンとこなくともその作品の写真を見て合点していた。じぶんは通所をはじめるまで年に一度あるかくらいのペースでその美術館に足を運んでいたから、そこと縁があればよいねという感じ。面談後の小一時間ほどで、あさってに見学へ伺うところまで話を進めていただいた。このかた連休中は県内の美術館を行脚されたそうでパワーがあるよ。別のスタッフさんとはじぶんが配布したポストカードの話になり、ゴールドと木目それぞれのフレームに入れて部屋に飾ってくださっていることを伺った。種類があるため気分に合わせられるとも。つくったものをその方の部屋の小窓にしてもらえていること、それを伝えてくださることが、逆に贈りものをされたかのようにうれしい。あすもあるからこのあたりでおやすみ。

2025年5月4日(日)

朝から園芸店をめぐった。那須街道は途中から上がすっかり渋滞しており、そこへつながる横道はいっそう動かなくなっていた。遠くから家族連れできているらしき車を見るにつけ、もっとひとのこない場所で遊んではと野暮なことを思う。そんなことは言っても、じぶんだって巻き込まれながら動いたわけだし。それくらいには車両の多いあたりをうろうろし、お目当てだったオレンジミントは運よく見つけられた。セージも探していたコモンセージではなかったものの、ホワイトセージをふたつ。前の年までのミント熱は下がり、ことしは庭に関して手を抜きたいなりに、ハーブそのものはほしいのだった。苦みを主体としたセージの複雑な香りを楽しむためなら、きょうのように面倒なこともなんとかできる。高原の風は原付で走るにはすこし肌寒かった。うちへ帰ってきてからはなんとなしに過ごすうち、この時間。苗をいつ植えようね……。ふと思っていたこととして、楽しいって思うことはある? 就職活動に入る前まであった活力が慢性的に欠乏しており、そうしたことが抜け落ちてしまっている現状は無理筋なのでは。

2025年5月3日(土)

道の駅の産直へ寄ったり、スーパーやコンビニへ寄ったり、もそもそとごはんを食んだり、そんなのでいつのまにか過ぎ去りし日。ほどよい時間にほどよく眠たい。

2025年5月2日(金)

雨降りにつきお休み。『君たちはどう生きるか』観た。よかったなー。過去作品のモチーフがちらほらとかなにかしら言いたくなっちゃうんだけれど、それを抑えて「よかった」で言い切りたい。母親の譲り渡しと受け入れというのは取り扱いが繊細だと思うのだけれど、なたを振るうように広げられるお話だった。塔へと続く岸辺のぬかるみにうへえと感じるところとか、おばあさんがついてきてどうするのさと思ったところとか、上へ飛んで行くワラワラたちの螺旋は両生類の卵だよねとか、思い出すようなディティールが細やか。それはそれとして、なにもしてなくても疲れるなー。

2025年5月1日(木)

午前中のみ通所。写真展向けに、看板用の印刷物やポスター的なものを作ったり。あとになってから思うに前回の展示会のように、実名ではなく屋号的なものを名乗りたい。それからポスターはフリーウェアでさっくりつくることになったものの、こういうののひとの呼び込み力ってそれ自体の品質に依るところもあるから、あとで個人的にイラレで作れたらよいのだけれどな。方針としてお金をかけられないとなると難しいだろうか。あすもあるから早めにおやすみ。

2025年4月30日(水)

午前中のみ通所。きのうの夜更かしが響いて船をこいでいた。睡眠時間が少しでも足りないと一日の調子に影響が出るのだよね。今宵は早めにおふとんへ。

2025年4月29日(火)

夜更かしの延長で夜明けの空を撮ったり、青いひかりで庭の花たちを撮ったり。ひと眠りして目覚めると午後だった。祖父宅のもう育ちすぎたたらの芽をレジ袋へぎゅうぎゅうに詰めて買い物をして帰宅。たらの芽は天ぷらとお浸しとした。茎は筋張っているものの、お浸しとした葉先は素直に食べられた。なんとはなしに過ごすうち日付が変わってしまった。もう眠るよ。

2025年4月28日(月)

庭のビバーナムとくちなしにベニカスプレーを拭いてみたり、クリスマスローズの古い葉をいくつか落としたり、もう咲きそうなモッコウバラとモンタナ系クレマチスにすこし触って見栄えを整えたり。白花のクレマチスが今春は小ぶりな花を咲かせているのを見てへこむ。この株に人生を変えてもらっているわけだけれど、秋からこの春までの仕込みと世話の結果が花つきに表れているのだなあと思う。花水木も思ったほどの花つきではないなあ。じぶんでがっかりするのは写真撮りたさがほとんどないこと。きのう友だちと話した際には、やり方や視座を変えるタイミングなのかもという話になった。今宵の雨は明朝には晴れるそうだから、夜明けのひかりで花開きはじめたライラックなど撮れないかなと思案してる。こうした話はアプローチが逆であり、その都度したいことをすればよいよということなのだろうね。なってみて分かる、心の動きの不可解さ。もうすこし掘り下げるとゆとりを培う日々が忙殺されているところに活力切れの原因があり、雇われて他者に時間を売る生き方より、じぶんで時間を配分する生き方のほうがまだましのように思う。しょうもないことだけれど、抑圧や強制にアレルギー的な嫌悪があり、この歳までくると付き合っていくしかない性のような気もしている。ぐるぐる考えながらも、お茶を淹れて雨の音を聞いたりランプの灯りで過ごしたりする夜であり、ふと思う、友だちになってくれるひとがほしいな。めずらしいことをいってる。