2025年10月13日(月)

それとなくお仕事するうちに時間が過ぎたのはよかったものの、長話に付き合うのはやめたいなーと思った。温めた昼ごはんが冷める。これは相手が話し終わってくれるのを待っている&いい感じの応答を醸してしまうこちらが悪いので、じゃあこのへんで、みたいに線を引いて切り上げる練習が要るね。いや、なんでも原因をじぶんに求めて他者は変えられないからとするのもそれはそれで均衡が取れてない。このへんはバランスが大切。日没後はかなり穏やかな気持ち。虫の声が減ってきたことを庭の暗がりから感じる。疲れを感じるから早めにおふとんへ。

2025年10月12日(日)

仔猫はもう大運動会の年ごろになり、体力が有り余っていくらでもケージの外で遊びたくて仕方ない、くらいに自己主張するようになった。とはいえ常時付きっきりで見守りながら遊ばせるのもひとの都合があるし……ということで、二階のスペースを掃除してそこに仔猫を放てるようにした。フローリングの目地まで全てきっちり綺麗にしたいし、置かれたまま使わないものや要らないものはまとめてクリーンセンターへ持ち込みたいけれど、それは後々。きょうはもうよい仕事をしたよ。と思いつつ、そのスペースの蛍光管を替えるためホームセンターへ買いものに行った。照明もそろそろLED仕様に工事をしたほうがよいけれど、一度に全てを完璧にというのは求めすぎであり、ここはひとまずこのくらいでよし。初めてそこへ連れてこられた仔猫はいかにも猫らしく探索をしていた。なんだか遊びたいようなのはそうなのだけれど、そのうえで人間が近くにいないと不満なのか心細いのか、こちらがドアひとつ向こうにいっただけで大声で呼ぶねえ。居室とスペースは行き来できるようにしておこうか。諸々の状況を鑑みてうちのなかを常に自由に過ごさせるにはまだ早いにしても、これで仔猫が前よりも遊んでいられる環境はできた。それとは別の話で怒りを感じやすいコンディションにあり、あー。交感神経優位、扁桃体の興奮、思考の反芻、このあたりはセットというか循環となってネガティヴな感情を招いているんだよね。そこで思考を止めれば楽になり解決というわけではないにしろ、マインドフルネスはじぶんを解きほぐすアプローチのひとつとして有効なのだろな。手元で読みさしなウ・ジョーティカ『自由への旅「マインドフルネス瞑想」実践講義』(魚川祐司訳、新潮社)はこれ一冊でヴィパッサナー瞑想の核心を説く感じだけれど、じぶんはもっとゆるく型から入ってそれっぽく体験してみるための本が向いていそう。それからふだん使っている椅子の高さ調節用ガスシリンダーが壊れた。値段のわりにはそれなりに長く使ってきたことだし、これも買い換えどきだなーと思う。しばし逡巡して、ここから夜更かししたいのだなと感じる。こうしたときこそ早めにねむるがよい。おやすみ。

2025年10月10日(金)

のんびり。ストレートネックの気があるのではと思って簡単な方法で確かめてみると、軽くそのよう。それで首回りのストレッチをいくつか試していた。胸骨のあたりを開くストレッチも効果があるそうで、これはじぶんの呼吸や声の課題と大きく重なる部分でもあるだろうから、一連の要素として気に留めておけたら。愛着の傷や内なる子どもと言葉にすれば一言で済んでしまうけれど、これまでの歩みの総体なんだよね。一つの物語には回収されない生身の複雑性を、雲をつかむように多面的なアプローチで捉える、そのためにこころや認知だけでなくソマティックな方面からも、知識と技を織り交ぜて接する。……というのがおおよそ理想だと思う。ひとつは日常のいろいろな場所で安全の感覚を確認してみることだね。放っとくとひとりでひたすらのんびりしているだけにじぶんの提言がめんどくさいのだけれど、こんなふうに出てくる方針にはよいことがあるから、気の向く範囲でその声に従ってみる。いまはどの趣味にもさして関心が向かわない代わり、こうした事柄にはそれとなく手が伸びる感じ。

2025年10月9日(木)

おふとんのなかでぬいたちと夕近くまでを過ごす。身体と神経を弛緩させて力を抜く、というのはできるのだけれど、これではないなと思う。もっと意識の底のほうに凝り固まった防衛反応みたいなのがあるはずで、それを解ければ意識や身体が周囲に馴染むようなリラックスの感覚があるはず。意識の底というか神経系の反応や配線くらいの話であり、たまに手がかりとなるような感覚が起きるのはおもに体調やメンタルの揺らぎ由来であって、直接こうしようと思ってすぐに手が届くわけではないかも。まあね、取り組んでいる以上はいずれ変化が訪れるだろうから、ひとまずは深呼吸と安心/安全の感覚をじぶんに与え続けることだよ。車があると灯油を買いに行けてよいね。

2025年10月8日(水)

流感の予防接種を受けてアレルギーのおくすりをもらうなど。いま、夜更かしして朝。防衛を解いたときの安堵が押し寄せる感じ、それを前の晩の寝入りばなに感じたのだよね。体感の切り替えで再現できないものか。

2025年10月7日(火)

たらふく眠ってすこし遅めに出勤。きのうの続きで泥に足を踏み入れながらセイタカアワダチソウの除去を済ませ、ひと仕事終えたことにして適当なところで帰途。途中で一時間ほどカラオケ店へ立ち寄り、うちでひと休みしたのち病院へ向かっておくすりをもらい、お店でお寿司を食べた。なんか元気だね。あすは流感の予防接種の予約が入ってる。歌を歌うたびに口笛がうまくなってる感触がある(当社比)。使ってなかった階段をざくざく上ってる感じ。届いたスマホにデータ移行ちゅう。

2025年10月6日(月)

出勤したもののなんだかやる気なし。セイタカアワダチソウを取り除くにあたって泥のなかへ踏み込みつつ作業し、そこでメンタルが削られたこともあり、適当な理由をつけていつもより早めに退勤。じぶんの都合を優先したければすこしの面倒を惜しまずに話すことだなーと思う。帰り道、金木犀のやわらかい橙が地面に積もるように散らばっていて、こんなときは台湾烏龍茶の香りがするんだよねと香りを吸い込んでみたり。このあたりでの花期はもうそろそろおしまいか。。。日がな微妙に気だるいコンディションであり、こうしたときは早めに眠って目覚ましをかけずに起きるのがよいのだよね。澄んだ空に中秋の名月。

2025年10月4日(土)

昼から小雨が降ったり止んだり。現在、他者の/他者からの境界を侵食するような交わりというものをじぶんは嫌悪しているわけだけれど、もしかしたら比較的多くの人々にとってそれは、親密さや愛情の表現としても通るものなのかもしれない。よいことかはわからない。ただ、双方が健全な自他境界を持っていればそれも一定の範囲内で成り立つかもしれないけれど、そうしたことばかりではないから世には人間関係の悩みというものもあるのであって。じぶんは境界が曖昧だったためしばしば関係性の傾きを許し、それが、心に穴の開いたひとたちからの餓えに因る脅威的言動を招きがちだった、のでは。ざっくり言うと依存や侵入がされやすい。たぶんね、他者を自己の延長としない、所有物のようにコントロールしない、親しき仲にも礼儀ありといった境界の引き方ができるっていうのは、そのほうが貴重な存在なんだよ、きっと。自他の主体性や自律性を尊重するというのは、当然のように聞こえながらも陥穽の多い、高度なことなのだろう。じぶんはこれまで境界線の引き方が下手だったところから、愛着の傷や内なる子どもを癒やす段階へ入って急速に自他境界をきちんと引こうとしているわけで、過渡期にはいろいろあって大変だというのはそう。でも、ゴールへではなくプロセスを行くことについてはわりあい腹落ちしているとも思うし、いずれ落ち着くときがきたらそうと気づくよ。それにしても対人関係の善し悪しってリスペクトの有無でかなり決まる気がするというか、じぶんはリスペクトを重んじているのだな。話変わり夏が過ぎてしみじみと思う、すいかはもっともっと食べていたい……。呼吸について意識を向けていると、深呼吸すればこんなに空気は入るのに、よくもまあ大さじ一杯くらい(?)の浅い息づかいで生きてきたなーみたいに思う。いまわりと長い揺れがあってぬいたちと様子をうかがっていた。夜は緊張せずにくつろいでいたいんだよねえ。のんびりする。