2025年7月29日(火)

きのうは書き忘れた。朝早くから炎天下を作業していたためか、疲れて昼休み中にすこし眠ってしまったのだった。それを皆さんが心配して、もう帰りなさい、あしたは暑すぎるから会社命令で休みにする、となったのがきょう。なにもせずに過ぎし日。当初は三日分の仕事を二日で終わらせてそのぶん休もうという目論見だったのだけれど、まあこういうのも頑張りすぎかもしれないし、どのみち時間給なのだし、適度に休んでちょくちょくさぼる、くらいのあんばいでいまはよいのだろう。ともすると気づかずにいることとして、ここしばらくストレスは感じておらず、メンタルの力みもなく平穏。そうなるととくに考えることもしなくなるようで、これは疾患特有の思考のループから楽になっている点では僥倖なのだと思う。やはり身体を動かして植物相手にひとりでする庭師という仕事は健康によいなあ。もっか欠落している意欲や楽しさの感覚については、主治医からはみんなそんなものだよと認識を変えて楽になる提案、担当スタッフさんからは楽しかったことに一日十五分でも触れて取り戻していく方法、を伺った。いまの気分は後者。関係のない話として、ぬいのうちの仔たちがあんまりかわいいので、じぶんをあげてしまいたくなるね。あげる、差し出すってどういうことかよく分からないんだけれどさ。あした行ったら日曜までお休みにすゆ。

2025年7月27日(日)

朝からすこし遠くの直売所へ向かい、喫茶店でしばし過ごしたのち、山のなかの本屋で散財。写真集などが主。うちへ帰ってきてからは車の運転に慣れるためご近所をうろうろしたり、ベランダで焚き火したり、うとうとまどろんだり。車庫入れの際に車体をすこし擦ってしまった。慣れるまでのあいだにまた擦るかもしれないから、もうしばらく試運転して問題がなくなったらこの件は車屋へ連絡する予定。

2025年7月26日(土)

『プロジェクト・ヘイル・メアリー(下)』を読み終えた。じぶんにしてはさくさく読み進められた、おもしろい本だった。どこをどう言及してもネタばれになりそうな気がする。作品の注文が入ったため、印刷所へデータを送ったり、メールの文面を考えて送ったり。

2025年7月25日(金)

定期通院先へ行ったり、通所先へ行ったり。じつは通所先からの連絡について勘違いをしていて、展示会を開いていているので見に来てねということだった。じぶんの写真展が皮切りとなり、もっとほかの利用者さんたち合同で展示会を催しては、ということになったらしい。見にいくと、おおすごいとなるような作品がいくつも展示されていた。この先はもっと身近な発信をしてみたいという声が上がったとのことで、スマホ写真で撮った身の回りの写真展が予定されているとのこと。先鞭を付けさせていただいて光栄なような、こそばゆいような。連絡先を交換していた方と展示物の感想などやりとり。その方は近年停滞しているものの、こちらの感想を切っ掛けに作品をお披露目することにしたとのことで、素敵な作品を拝見できるのはやはり眼福で面映ゆいね。その方からは、こちらの個展がみんなの心に栄養を注いだからこそのこの流れと言ってくださった。よい流れが生じるときというのは連鎖するのだなあということをしみじみと思う。もうねむたいのでこのあたりで。『菊次郎の夏』を観た。作業の背景動画くらいに流していたら魅入ってしまった。この題名の意味が分かってから再び視聴するとなんだか趣が違うよねえ。久石譲のSummerも、涼しい午前中のうちに夏休みの宿題を片付ける……くらいの軽やかさがあってしみじみとする。まあじぶんは荒んでいた中学時代、夏休みの宿題はぜんぶ忘れたで通したふてえやつなんだけれども。傷のあった作品印刷の再注文をしていたらもう日付を越え真夜中。じぶんの作品はスリーブに入れると紙の表情が失われてしまうので、むき出しのままマステかなにかで蛇腹折りにすることを目論んでいる。急がなくてもよいのだけれど、仕事先の奥さまがこちらの作品を友だちに自慢してくださったとのことで、それでなくともいつ誰に披露することになるか分からないから、作品はまとまったかたちにして原付に乗せておきたいのだよね。もうねむたい。おやぷみ。

2025年7月24日(木)

そわそわする日。こういうのは飲み薬の症状で出るアカシジアかも。それはそれとして朝から果物市場を回る。途中で通所先から電話があった。じぶんがそこで初めて開いた展示会をほかの利用者さんも開いてみたくなったとのことで、その件についてこちらの話を聞きたいから来てほしい、とのこと。よい流れが続いてるという思い半分、休みたいなあという思い半分で、あす午前に訪問することに。日がなアカシジアらしきそわそわ感があり、さっきジアゼパムを適当に取り出してぼりぼりしたところ。たまには書いてよいような気がするけれど、発症前後の数年はやばい感じの病み方をしており、薬物、自傷、夜のお仕事など、ひととおり爛れていた。同期から「おまえがおまえじゃなくなっていくのをどうすることもできない」とか、医者から「ありゃ死んだ目をしているな」とか、ネットで知り合った方から「すべてに絶望したような昏い瞳、気に入りました」とか、いろいろなひとからいろいろ言われたことを覚えてる。話が逸れたけれど、そのころの癖で処方薬はかみ砕いて飲むのだよね。成分が一秒でも早く脳に届きますようにという気持ちはあいかわらず。病み系の話題や仕草は卒業したつもりでいるけれど、ときにはそういうのをぶつぶつ書きつけるのも古傷を撫でるようで心地よく思う。これを書いているあいだに処方薬が効いた感じ。心地よく、と感じることが、当時のじぶんをいまのじぶんはやわらかく受容しているのだなあと思えて、こういうのは愛おしい。ここの雑記を振り返ると2022/3/9にこうしたことを書いていて、改めてほんとうに時間のかかったことだったのだなと思う。じぶんが過ぎ去った話を扱うのは、折り合いがつき、あるていど解釈も済んでいる状態のときなのだよね。

2025年7月24日(木)

だらだらと過ぎし日。意欲や楽しさの感覚が戻ってくることを期待してひたすら休息を取っているけれど、それらを前提にするのって筋の善し悪しとしてはどうなのだろう、と考えていた。まず、現実との齟齬がある。そして、じぶんはいずれ変化する。であれば、いまは意欲がなくて楽しさを感じにくいな、という受容のほうがすんなりとできるのでは。あまりそうならない気がするのは沽券みたいなところで、趣味の多彩さや能動的に面白がることに自負があったからなのだろう。シゾイドパーソナリティの感情の淡さについてはじぶん自身、工夫の要る側面だなあと思う。意欲や楽しさが感じられなくても行動できる箇所に注目すれば、そこがじぶんにとってのなにかなのかもしれない。ChatGPTの言葉ではあったけれど、取り戻すではなく、もう一度初めから育てていく、という捉え方は筋がよいように思う。いつも通り推敲しないまま書きつけて、おやすみ。

2025年7月22日(火)

仕事のあと道の駅へ寄ってキャラメルのようなチーズを買ったり、山の上のほうへ行って展望台からの景色を眺めたり、はちみつ専門店であれこれ試食したり。気持ちにゆとりがあるね。那須高原も湯本のあたりまで上がると車は多くなく、うねる緑のトンネルをくぐっていくのが涼しく気持ちよかった。はちみつは気まぐれだったのだけれど、野の花の蜜や春先の蜜、樹種ごとの蜜などいろいろなものがあり、甘さと花の香りのニュアンスがさまざまでおもしろかった。野ばらの花の蜜をひとつ購入。帰ってきてからは疲れておふとんのなかでごろごろ。

2025年7月21日(月)

昨日は疲れて書き忘れた。教習所へ行って所内を運転し、うちへ帰ってきてすぐ疲労で眠り込み、未明に一度起き出してベランダで焚き火をしつつビール。そしてもう一度眠り込み、けさは身体が起きていないような微妙な気だるさのなかお仕事へ。帰ってきてからはなんとはなしに過ごした。あした行ったらしばらくお休みにすることにして、今宵はおふとんでゆっくりしては。

2025年7月19日(土)

お仕事をすこし短めに切り上げて、予約していた輸入ビール屋さんで買い物をし、帰途。友だちから「知り合いが保護した子猫の引き取り手を探している」旨を聞いて、それならうちで引き取ろうかという話になった。親猫のいなくなった子猫は体重300グラムほど、生きられるかどうかわからないくらいのあんばいらしく、もうすこし大きく育ったらそのときは県内を縦断して引き取りに行くことに。原付では子猫が耐えられないだろうから車で行く都合があり、そのためにペーパードライバー教習を早めに済ませる必要が出てきた。宵のころ、庭でひとり花火。うん、火を相手にするのってたのしい。子どものころにした花火を思い出すといまだからわかるようなこともあり、それでも花火のまばゆい炎は綺麗だなあと思う。んー、教習所とうちでごろごろ、天秤がゆれるくらいの気持ち。おふとんへ。