バンコクでの十日間を過ごしてうちへ帰ってきた。あの喧噪とここの静けさとに不思議な感じがする。出発前に感じていた不安は消えて、いまは疲れと安堵が大きい。出発前には朝晩はまだ寒くて桜も満開寸前だったのが、帰ってきてみたら心地よい気温ともうほとんど散っていく葉桜が迎えてくれて、田に水は入りかえるの合唱が聞こえ、庭にもあたりにも春の花が咲き乱れていた。バンコクの毎日35度を超える暑さや日射しの強さから比べると、日本の春は新緑の色がさまざまで目にやわらかいなあと思う。よい旅行だった。勇気を出すとご褒美があるというのは紛れもないこの世の理なのだな。今宵はかえるの合唱を聞きつつ、ランプの灯りで静かにシードル舐めて過ごすよ。
2025年4月8日(火)
先の展示会のアンケート結果を受け取りにNPOさんへ。スタッフさんによるとプロの写真家の方もいらしたそうで、光の扱いが素晴らしいですと評されたことを教えてくださった。来場したみなさんいろいろ書いてくださっておりうれしいなあ。作品をうちに飾りたいという意見がちらほら。じんわり浸りたいところだけれど、あすは四時に起きて五時には部屋を出る予定。遅くならないように眠る。
2025年4月7日(月)
朝、産直を覗いてから市役所で戸籍謄本を取ったのち、百均で用事を済ませてうちへ。宵のころはいつもの小高い場所へ行って夜桜を見た。なんだかテンションが低いのはよくあるイベント前のそれなので、あした用事を済ませたらうちで荷造りして過ごそう。不安があるんだなあという思いとともに、この一歩踏み出すことへの不安というのがじぶんにとってとても大切な意味を持つものであり、よく味わうのがよいよという気持ち。北海道へ行ったときのほうがいろいろとひどい有様だったし、今回はよりゆったりした旅行だと思うよ。することがあるときは朝の時間のために早く眠るのがよい方法。
2025年4月5日(土)
薬局やドラッグストアで用事を済ませ、モスでハンバーガーを持ち帰りした。それからうちでもそもそ過ごすうちに日が変わりそう。あしたは荷造りをすることにして、居心地のよい夜をもうしばらく。
2025年4月4日(金)
午前中のみ通所。旅行用のタイ語で使いそうな言葉を手帳へまとめていた。いったん帰ってきてから定期通院先で英語の診断書も受け取り、百均や皮膚科その他へも立ち寄って帰着。よく頑張りました。処方箋の受け取りや薬局への用事などはあす以降に回して、今夜はのんびり。
2025年4月3日(木)
雨のため通所はおやすみ。街中をうろつくためのショルダーバッグをネットで探し、ポチった。うちの仔たちふたりといっしょに行動するためのもので、目立たないほうがよいから愛想のない黒のナイロンのものを。なにかについて語られるとき、勇気がある/ないというよりは、分からないことには不安で身がすくむというほうがより正確なのではと考えていた。旅立ちを迷っていたリフラというひとは、雨雲の連れてきた予感と渡りウサギの「じぶんの目で確かめたら」という言葉を契機にして、町を出るんだよね。分からないことへの反応ってひとつではないのだね。分からないことはその先になにかがあり、それによって別のなにかが新しくなる期待、予感も隠し持っている。予感と好奇心で動くときにはものごとが色彩と意味を持って立ち上がってくるはずで、それはそのときそうでなかった渡りウサギからもくみ取れることだった。いま分かったのだけれど、渡りウサギは一杯の水のお礼を、結果的に彼女の好奇心に火を付けるというかたちで返していたのだなー。……アクリルについてのこういうあれこれはふだん紙に書き出しているから、ここの雑記へ内容があがってくることはないんだよね。あすに備えつつのんびりする。
2025年4月2日(水)
通所はおやすみした。めんどいながらも旅行に要り用な品をAmazonでポチったり、分からないことをChatGPTに訊いたり。きょうのぶんは進んだねという感じ。本と音楽をどうしようかということで、松任谷由実とパットメセニーグループのアルバムを中古で何枚かずつポチる。本は積ん読から探せばよかった。レイチェル・カースン『われらをめぐる海』、常見藤代『女ひとり、イスラム旅』、蔵前仁一『旅ときどき沈没』、あと日に焼けたジャム詩集、のあたり。ライアル・ワトソン『風の博物誌 上』とダンピアの最新世界周航記もよいな……。こうした状態はじぶんで思うよりも幸せなのだろう。わくわくもすこし感じていることだしね。
2025年4月1日(火)
あまり調子がよろしくなくておふとんで過ごした日。気持ちが萎えているからあすはおやすみということにして眠ろう。そういうの大切。