2024年11月7日(木)

午後はキャンセルして午前のみ通所。あーもーきのうからしんどい。ストレス反応が持続してるんだなー。もうひたすらおふとんへ。

2024年11月6日(水)

午前のみ通所。面談があって疲れた。嫌がらせをしてきた人のその後について水を向けられたのだけれど、そうした話題は触れるだけで闘争/逃走モードになるなあ。むかしからスポーツ観戦なども含めて思うこととして、アドレナリンで脳がちりちりする感覚を不快で避けたいものに感じるのだよね。それから、自分の正しさに依拠した物言いをしたあとでは間違いが気になってくるもので、そこも帰ってきてから勝手に疲れてる。思うのは、支援する側としてはなるべくよかれと思うものであり、まあ、素直にすべてに付き合う必要はなくて、うまいことやりましょう、ということ。しばらく前のことでもやっとした思いが残るのは、ある支援員の方が言い残した「成長を楽しみにしてるんだよね」の言。もやっと=微細な嫌悪感が後を引くというのは、そのぶん肝心な感覚でもあるのだろう。対人スキルが高く経験豊富で興味は人間というひとに対して、人間のほうばかり向いている人間に特有の粘つきを感じることがあり、そこへの忌避感なのかもしれない。ただ、自分が粘つきと感じているものは一般にポジティヴなものなのだろうね。人や社会以外の方角にも視座を持っている人というのもやはりそれ自体の気配を帯びるもので、たとえば自然に向き合う人には、個人的には特有の抜け感というか、粘つきとは逆のさらっとした風通しを感じる。こうした感覚はいずれも、じぶんが社会から一定の距離を置きたいというところにつながるのだろう。なんとなく気が立っているときというのはここへ書きつけることがへんに傲慢で饒舌になるのだけれど、それはよくないときの傾向でもある、という自覚がある。あとで読み返したらげんなりしそうね。しっかり湯に浸かって身体を温めたのだから早く眠るがよかろ。

2024年11月4日(月)

きのうに引き続き穏やかな気分の日。カレンダーを見て、年末年始まであと二ヶ月を切っていることの現実感のなさを思う。今季初めて石油ストーブを点けた。

2024年11月3日(日)

快晴。買いものがてらパンを食べたいと思い、しかしさいきん近場にできたベーカリーは日月がお休みなため、ときおり話題を耳にするお店へ向かった。そこは住宅地のやぶに覆われた一角にあり、その雑木林を入っていくと年季の入ったというかうらぶれた小屋のなかに、手作り直売所のような薄暗く狭いお店があった。こう書くと大丈夫なのかなという感じではあるけれど、実際には独特のスタイルだというおもしろさが勝る印象。並ぶのはいずれもライ麦を使ったパン。固くて酸味のあるパンは個人的に好みで、どっしりしたのをつい三種類も買うことにした。出てきたお店の方にお会計はと訊ねると、じぶんでどうぞとのこと。それで電卓を叩き、硬貨や紙幣が無造作に突っ込まれている箱から金額分を取り出したり入れたりした。良心に委ねているというか無頓着というか、おもしろいのは間違いないね……。そのあとは市内を移動するうちに市主催の文化祭が開かれていることに気づき、そちらへ向かった。会場は人でごった返していた。ひとまずベンチでラーメンを食べてから、小中学生の図画工作の展示を見に建物へ入った。この展示はなんだかんだと毎年見にきている感がある。つい先日、千葉雅也『センスの哲学』(文藝春秋)を読み、そのなかで作品というものをどう見たらよいかのひとつの提示として、意味から離れリズムやビートやうねりを捉えてみる、という考えかたを仕入れたのだった。それでそのように見て回るうち、ものの見方を変えると感覚まで変わるのか、身体というか意識がふわふわしてくるように感じられた。そうしていることはそれ自体がちょっとおもしろいね。ひととおり見て建物を出、気になっていたフリマのほうへ足を伸ばした。クレープを歩き食べしつつ、とくになにか買うでもなく、いろいろあるねえという感じで露店を流し歩く。気になったのは座り込んでいる姿をした馬のぬいぐるみで、その眼差しが高貴なものに映ったのだった。うーん、いっしょに過ごすぬいが増えるならひとりと関われる機会は減るわけだしねえ。そんなんで心のうちでそのぬいを褒めるにとどめ、撫でて差し上げたい気持ちを引っ張り会場を後にした。気がつくと日は傾き始めていた。思いのほか充実した日だったように思う。ライ麦のパンはずっしりしておいしい。きょうのような過ごしかたができるのは満たされていることは間違いなく、その感情に名付けせずともよいからじんわり味わうとよいよ。