2024年9月8日(日)

のんびり。原付で買い物から帰る昼ごろ、叩きつけるような土砂降りに見舞われた。なんにせよ服は洗うし靴もそろそろ磨くころだし、濡れるのが反射的にいやなのだな、そう思うと濡れ鼠になっても気は楽だった。雨粒の痛みや温かさ、土砂降りに包まれる独特のくつろぎやおかしさ、夏もそろそろ押し流されていくことを思う。うちへ帰ってきてからは窓辺の机の前でぬいとひたすらのんびり。夕餉のさなか、舌の感覚を感じるままにさせることを唐突に思い出した。言葉で説明するのはむつかしいのだけれど、口に含んだ食べものに対し、舌の味覚や触覚に抑制をかけず耽溺させる感じ。サーモンのお刺身を食みながら美味しさのあまり舌が実際にぴりぴり痺れ、その疼いた感じは時間が経っても残ってる。思えば夜の庭を前に夕餉をとるようになった当初は、そういう戯れるような味わいかたを通してくつろいだひとときを過ごしていたのだった。舌も開発できる部位なのかもね。

2024年9月7日(土)

午前のみ通所。自習か読書をするつもりで向かったらきょうはペタンクというゲームをする日だった。跳ねないボールを投げるカーリングのようなスポーツ。初めての参加だったけれど慣れてくると戦略もあり楽しかった。昨年末のボーリングもいい感じだったし、じぶんは投げる系のスポーツやレジャーに向いているのでは。帰ってきてからは窓辺でぬいとのんびり。エディンバラ シーサイドジンという、海に着想を得たというジンがおいしい。柑橘系の香りは抑えめで、どことなく潮の雰囲気というか、マリン感がある。そして思う、なにかについて思い煩うということ、なにかがストレスだということ、それは矢印としては外向き。状況は個別に捉えるとして、考えるべきはなぜじぶんはそう感じるのかという内向きの矢印なのだった。手当てすべき身体の傷を無視して威嚇を放つなら身体は当然痛みを感じ続ける、そういうものなのかなと思う。いまは気分がかなりフラットになれているし、しばらく休みに入れるしで、これ書いたらのんびり夜更かししよう。

2024年9月6日(金)

午前中のみ通所。いったんうちへ帰ってきてごはんを食べたりしばしまどろんだりして、それから定期通院先へ。主治医に、穏やかに過ごせばよいのに怒りや不愉快なことを際限なく頭の中で蒸し返してしまう、と打ち明けた。先生は「悩んでしまうのはいまのじぶんに必要なことだからかもしれず、取り組むべき問題だと感じているのかもしれないし、解決することで楽になりたいというのもあるだろうし、悩むというとネガティヴだけれど悩むことは必ずしも悪いことではないですよ」という旨をおっしゃった。生活が大きく変わっていくいまのじぶんには必要なプロセスなのかも、というところに大きな安心をいただいた気がするよ。うかがってよかった。帰ってきてからは早めの夕餉を済ませ、それからはぬいといっしょに窓際の机の前で過ごしていた。昼過ぎに庭から手折ってきた八重の小くちなしは宵のころには内側の花弁を開かせており、床へ就くころには残りのもうひと絞りも開くのかなと思って眺めてる。

2024年9月5日(木)

午後まで通所して帰宅。そのあとはのんびり。購入した絵に加え、夜を題材にしたポストカード類を何枚か壁に貼っていた。しっくりくるような配置がむつかしい。。。それなりに生きていると、この時期はこういう歩みといったもの、そのときどきで乗っている潮流のようなものがあると思う。夜というものが病と不眠のためにかさついた苦痛と虚無でしかなかったころもあった。いまは夜の穏やかさに憩いじぶんを預けてさえいる。改めて思う、ひどく乱れた存在だったけれど生きることだけはなんとか手放さなかった、あのころのじぶんが愛おしい。過去のそれぞれの時期でじぶんたちが傷ついたまま待っていてくれて、ここからは一緒にいこうとみんなの手を取れもしたからこそ、ひとりでいることが単なる充実を超えて水入らずですらあるようになった。たぶん、これまでになく楽しい潮流にいる。

2024年9月4日(水)

午前のみ通所。うちへ戻ってきてからはモニターの梱包と集荷の手配をし、運送会社のかたに素早く引き取っていただいた。お世話になっているNPOのスタッフさんから電話があり、来月末に登山のお誘いをいただいた。うれしいお誘いで即座に参加をお伝えした。登るのは地元の山とのこと。調整のために後日打ち合わせをすることになった。考えてみたらじぶんは登山用の靴も服も持っていないね……。適当なものをそのうち揃えよ。そのあとは身のまわりの片付けをした。早めの夕餉を済ませ、ごみを回収場所へ出しに行くと、夜風は肌に心地よく空一面に星が出ている。急に散歩がしたくなり、懐中電灯を持って二時間半ばかり夜道を歩いた。なんか急に元気。土曜まで通所があることだし今夜はもう眠ろう。

2024年9月3日(火)

昨晩は雷が鳴るなか停電があり、その際にデスクトップ機のモニターが故障したらしく電源が入らなくなった。それについてはきょうメーカーのカスタマーサポートに連絡して受付番号と送付先を教えていただいたから、早いとこ発送するつもり。27インチのモニターを元の梱包で送るとなるとかなり大きいサイズになるのだよねえ。どんな方法があるかは運送会社へ聞いてみるのが早そうだからあすあたりに。予備のモニターを捨てずに残しておいたじぶんえらいのだけれど、これもはんぶん壊れており、画面がグラデーションのように暗く映って使いづらい……。こんなことが起きると気分はごちゃっとするものの、淡々とシャツにアイロンをかけ身のまわりのことを済ませ、夕餉のあとには口笛を吹くうち、久々に陶酔に浸った。個人的に口笛は体調と気分の総合的なバロメーターのようなところがあり、こうした陶酔の気持ちよさは、唇の筋肉がなまっているのがわかるくらいにはご無沙汰だったみたいだ。ここずっと疲労感とストレスでぐったりしていたから、コンディションのよい日がこれからもあるとうれしい。あざなえる縄というかなにごとも浮き沈みということをいちおうの前提として日々を過ごそう。

2024年9月1日(日)

道の駅の直売所へ行くと新米が入荷していた。さいきん取り沙汰されていたお米の買い占めもそのうち収まりそうね。栗ときくらげを購入。この季節になると豆乳にお酢を垂らしてつくるシェントウジャンをつくりたくなるのだけれど、その個人的な具材がもやし、きくらげ、桜えびなどなのだった。『ノマドランド』観た。喪失と心の傷を抱えた女性が車上生活者となり、ノマドと呼ばれる同じような放浪者たちと出会い、別れを繰り返していく物語だった。その暮らし向きは序盤から生々しく描かれていて、安易な憧れを受け付けない。そしてわかりやすい答えも出ないところに、癒やされない心を抱え旅を続ける姿が描かれていた。それでいいと、ある人物は語る。それでいいのかな……と観ていてがらにもなく思ってしまうのは、生活のための過酷な場面を淡々と描かれてこちらの胸がきゅっとなったからでもあるし、心は傷ついたままなのかという問いにこちらの人生でも答えが出ないでいるからかなと思う。よいねと思ったのは美しい自然と、それらに囲まれているときの主人公の安らいだ姿。この映画は夕景のグラデーションが終始繊細で麗しく、ときおり出てくるランタンも優しく側に点っていた。とある登場人物がそうしたように、美しいもののなかで旅を続けることはできるのかもしれない。

2024年8月31日(土)

雨降りかつ気が乗らずに通所はお休み。昼ごろには雨はすっかり上がり、ホームセンターでハンマーとたがねを見繕った。石にじわじわ興味が湧いてきたから、これらを持って河原へ行き石を割ってみたいのだよね。レジの方がこちらのネイルを褒めてくださり、とっさのことでなんか挙動不審になった。もうずっと続いている傾向ではあるものの、気分がへこんだり浮いたり疲れやすい……。