2020年4月24日(金)

午後より雨。なめことクリタケの菌駒を母と打っていた。意外と駒が多かったせいで、タモギタケのためのほだ木が足りない。あとで祖父宅に残された桜の丸太をもらってくるつもり。日曜に予定されていた四十九日の法要は、集まったり出掛けたりしないでとお触れが出ていることもあり、祖父の娘であるうちの母と喪主だった従弟の二人に代表して執り行ってもらうことになった。

2020年4月23日(木)

採った山椒の佃煮でごはん。穏やかな気候なのに手足の先が冷える。ぐったりしそうなときは早めに感知して休息を取るべきだろな。一年に一度くらいの頻度で不規則に体調を崩すけれど、ここに溜め込んだ文章の傾向から、春は特にそうなりやすいように思う。いったん不眠と不安に軌道が逸れると立て直すまでが大変で、いい季節がもったいない。やっと自分のものにした眠れることの快楽は、もう手放すつもりはないんだ。昨夜は流れ星を見たあとでふと「そうか、詩も哲学も必要なんだ」という考えが脈絡なしにピコンときた。風呂から飛び出してユーレカ! みたいに。そういうのを摂取していこう。

2020年4月22日(水)

4月こと座流星群を見た。二時間くらい空を向いて、五、六個の流星が視野を流れた。こと座は織姫星ベガを含むので、ベガが構成する夏の大三角も空に昇ってくる。夜も深まるころに見る星空って、季節を一つ先に行く。こんな生活圏内の時間に夏の予兆が見えるようになってきたんだなー。梅雨入り前のからっとして眩しい季節が惜しいというか、愛おしい。そういうのを夏が来る前に、一年分の補給をするつもり。

2020年4月21日(火)

山菜採りへ。あけびと山椒、それから採る者のいなくなった祖父宅のたらの芽が、レジ袋一杯に確保できた。目的地の林道脇に脱走園芸種じみたユキノシタ(たぶんハルユキノシタ)がわーっと生えている場所も見つけ、ぼってり感のある若い葉を二十枚、数えて摘んだ。一面にあるからとはやる自分を抑えたつもりだったけれど、こうして振り返るとだいぶん欲の出た数字だ……。夕餉の天ぷらはほのかに甘かったり苦かったりする美味しさだった。家族と食卓に着く安らかさが昨今はとても儚いことを案じたくらい。ユキノシタの天ぷらは癖がないというか、それはほろ苦さもえぐみもないことの裏表だったのだけれど。あけびの蔓のお浸しに卵の黄身とつゆを絡めたのが味わい深かった。あけびの蔓は細いので、食べるための量を山菜採りの片手間に集めるとなると、少し時間が掛かったのだよね。お浸しをそろそろと噛むうち、軽いほろ苦さの中に、微かに花の香りを感じた気がした。なんだろう、藤の花のような、口内でそうと薫らせなければ判らない香気があるような気がしたのだけれども。一緒に食べていた母は、食べられるけれどそれほどの美味しさは……という評価をしていた。山椒はあす佃煮か山椒味噌にする予定。

山からの帰り際、神社に立ち寄って桜の周辺をうろうろしていた。昨日は雨が降ったことだし、アミガサタケが生えていれば見つけられるかも、と思ってのこと。なんかあれだね、きのこってむつかしい。

マンガAI|アルというサイトにお薦めされた『パンプキン・シザーズ』をこれから読む。戦乱が終わってそして、というお話だとか。似ている候補にプラテネスやスプリガンという作品も挙げてもらった。そちらはそのうち。

2020年4月20日(月)

眠い。日記雑記置き場を作ろうと思って作業をするうち、ヘッダーやフッターをphp includeでモジュール化し始めたり、CSSのflex-flowの使い方を調べなければならなかったりと、例によってまた手掛ける範囲が広くなってきた。このへんにして眠ろう。

春宵一刻直千金という言葉があるけれど、本当にそうだなあと思う。青い薄暮の中に橙の街明りを見ていると、市街がゆっくり呼吸をしながら眠りへ就こうとするように見えて、そんな時の明かりは春特有の潤んだような気配を持ってる。

2020年4月19日(日)

今さら菌駒を打ち始めた。残りはまたあとでやろう。風が強く肌寒い日。それでも冷暖房の要らない気候になってきたおかげで、窓を網戸にしたまま心地よく眠れてる。春から初夏にかけての自然は輝いててよいね。

2020年4月17日(金)

もらった診断書を見ると軽くへこむ一方で、べつに今更ではないでしょとか、よりましになってきたと読み取れるのでは、みたいな考えも浮かぶ。まあね、いつか穏やかさを手に入れるってことを、過去の自分に教えたいよ。あしたは強めの雨が降るとか。鉢のスイカズラを植え直した。自分の気分は自分で作ることや、感情を制御下に置くために必要な他者との距離のことを思う。

2020年4月16日(木)

唐突に「なんで人間は銀河を見て美しいと思うの?」と自問してびくっとしてた。進化の途上でそういうものに対応する機会というのはこれまでなかったと思うのだけれど、だとすると美の感覚って、銀河の構造や要素を捉える受容体みたいなものを備えているんだろうか。でもまあ、解釈であとから感覚を補強している、というのもありそう。

2020年4月15日(水)

乃木神社に立ち寄ると、神職さんたちがひとけの無い境内で雑草をむしったり、その様子を社務所の売り場から眺めたりしていた。

植木屋に頼んで邪魔な庭木を倒す話が進んでる。柚子には実やアゲハの食草という点で未練があったので、その枝を二本ばかり切り取って断面を整え、水に挿した。これらが発根すれば敷地の隅へでも移してやるつもり。

ものの弾みで哲学方面の本に手を伸ばした。論理的に考えることが苦手なうえ、いろいろと平行して読むたちなので、そちらをいつ切り上げられるか全く見当が付かない。実存主義はどうだろうかと思い、まずはそのあたりの源流らしいキルケゴール『死に至る病』(岩波文庫)へ着地予定。哲学は放っておいたらいつまでも縁が無かったんじゃないだろうか。