2021年8月3日(火)

ここ何日か『アマゾン河の博物学者』を継続して読み進めてる。一日につき、およそ20~30ページに二時間をかけるペース。その二時間の話になるのだけれど、ページをめくっているあいだはそうした時間の経過が気にならないかも、という感触がある。認知機能にダメージが入っているから読書の没入感はもう味わえないだろう、と諦めていた。その没入感の基準というのは、栓の抜けた洗面台へ蛇口の水を出しっぱなしにするように本の世界へ耽溺していた、父の死が迫る小学六年生当時の読書感覚。それは子供の防衛反応が加わった強い没入感だったろうから、そこを基準にしてしまうとそれ以降での肯定的な話自体がむつかしいんじゃないだろうか。文字を追って心地よく過ごせる二時間は、幸せかどうかで言えば幸せに過ごしていると感じる。時間が気にならず幸せというのは、おおまかに没入感に含めてよいのでは。というか、強度を比べるとおかしな話になるのかもしれない。それはたくさん読みたいのかという問いも同じこと。願望が向かうほうに答えもあるとは限らないんだろう。いまどんなふうに満足しているか、その質を高めることはできるか、それはどんなふうに、という方向性がおそらく自分の読書には適してる。集中したり夢中になる機能が希薄ななかで、読書を始めとしてそれなりに時間を忘れられる対象があることは、自分が思っている以上に幸せなことかもね。

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