2020年7月24日(金)

アンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』を観た。ネットで監督の名を見かけて興味だけは持っていたから、週末のこの機会にと思ったのだった。ときどき霧が立ちこめては晴れ、終始なにかしらの水音が聞こえる、静かな映画だった。なにが心に残ったろうなと自分に問うと、水がばらばらと漏り光の入る屋内で犬が乾いたところに寝そべる、あの場面。タルコフスキーという人は水へのこだわりがあるんだろうか。登場人物は大体どこかねじが外れている気がした。

草刈り機が動かせるかどうかの確認で一日かかった。駄目みたいだ。交換すべき燃料チューブやプラグにガソリンなどを求め、ホームセンターを何度も往復。電話越しでの大叔父のアドバイスは、ガソリンは一ヶ月も放置すると使えなくなるから新しいものに入れ替えること、プラグを専用の工具で取り外して掃除すべきかもしれない、ということだった。出来ることはやってみて、それでも動かない。あれこれ奮戦して夕方ごろ判明したのだけれど、去年の台風直撃で祖父宅の物置が農機具ごと水没して以来、それらが動くかどうか、誰も確認していなかった。取り外したプラグの頭部はべちゃっとした汚れにまみれていた。エンジン内部もあんなふうに、水没したときのまま汚れているのかもしれない。仕方がないから後日、農機具の修理を引き受けているJAの施設か、母の馴染みの車屋さんへ持ち込むことになった。セルフスタンドで携行缶にガソリンを入れていたら従業員の方に注意されてしまった。ガソリンを車でなく携行缶に注ぐ場合は、スタンドの人がその作業を行う決まりになっているそう。すみませんと頭を下げながら、こういうの自動車学校で習ったんだっけ、みたいに考えていた。判然としない。

八溝山地のどこか頂上から茨城の方角を向けば約50km先の海が見えるかもしれない、ということをいま思った。実際には低い隆起からの見通しはよくないかも知れず、大気だって夏場はことにもやが掛かるけれど、大切なのはあの空の下あたりにそれがあると分かることだ。自分が暮らす那須野ヶ原のことは山に囲まれた内陸の平らな土地、みたいに認識して、ここは海とは縁のない場所だなーということを疑いもしなかった。「あの山の向こうは海」と知っていることは、認識の空間が広がって気持ちのよいものだねえ。地元から撮られた富士山の写真を見たことがあるから、その四分の一の距離にあるものなら、高度を鑑みても山地頂上からの視野には入っていそうだ。いつか検証できたら。

今年の梅雨はみたいな文脈で、雨はこんなに人間をいたぶってなにがしたいんだ、という趣旨のトークを、いま始まったラジアンで聴いてる。天候に思惑がないことは分かっているけれど、自然現象を擬人化したらトンチキな文章になって楽しそう。

谷川俊太郎の詩集はきのう読み終えて『たのしいムーミン一家』第三章の終わりを飽きもせずに読み返してる。この主張も飽きないけれど、あの大夕立の向こうで閃く予感と幻想は、ムーミン屈指の名場面だもの。あれにはなんとなく、雨と雑踏のビッグ・ベンを想像するなあ。

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