2010年11月18日(木)

大間々の展望台からこれは矢板市の八方ヶ原・大間々の展望台から眺めた那須地域。左手に那須連峰がある。本日の八方ヶ原は天気が変わりやすく少し吹雪いていた。

昨日は那須温泉郷の殺生石へ行ってきた。曇りがちな天気のもと那須街道を抜け湯本へ至る道へ。

殺生石のふもとから流れ出でる湯川を渡る手前の駐車場に車を止め、まずまっすぐ殺生石へ向かった。殺生石辺りは礫や岩がごろごろしていて歩けないため、観光用の歩道が敷かれている。一番手前にあるのは盲蛇石。これは案内によって「Mojaishi(もうじゃいし)」「めくらへびいし」と二つの呼び方があるようだ。この石は賽の河原と呼ばれる岩だらけの一帯にある。賽の河原のイメージからなのか単純に登山道としての中途にあるからなのか知らないが、そこかしこに小石が積み上げられている。ふつうはこれをケルンcairnと言い、いつ、どこで誰が始めたのか分からないくらい世界中の山々で見られる光景でもある。が、ここは亜硫酸ガスや硫化水素ガスの吹き出す死の地だ。亡者と鬼の三途の川縁といった方が似合っているのだろう。

盲蛇の湯の花木道を歩き、湯の花採取場へ至る頃には、辺りはすでに濃い硫黄の匂いで被われていた。ここの湯の花にも謂われがあり、昔、ある男が盲の蛇に出会い親切にしてやったところ、その恩返しとして湯の花の作り方を教わった、のだとか。側の小石を拾ってみると、それは黄褐色をした硫黄と小砂利の混ざったそれだった。

教伝地蔵賽の河原だから地蔵菩薩もいる。河原中央の教伝(教傳)地蔵と千体地蔵だ。実際には千体もいないのだろうが、ひとつひとつに編み帽子がかぶせてあって和む。花も供えてあるのは近くの温泉神社の人のものだろうか。教伝地蔵のあるところは教傳地獄と呼ばれていて、これまた昔、親不孝をしたために天罰を受け死んでしまった青年を供養しているという。

九尾の狐伝説、殺生石木道の突き当たり、正面の断崖上にあるのが殺生石だ。殺生石と言えば九尾の狐、玉藻の前。鏡が池のほとり、桜の木の上にいるところを三浦介義明に矢で射貫かれ絶命した……ここまでが玉藻稲荷での言い伝え。こちらでの伝えによれば、この妖狐は死後、更に毒石へ姿を変え毒気を放って人畜に危害を加えたとのこと。そのため「殺生石」という名が付いたのだが、案内板にはのちに会津示現寺の玄翁和尚が岩にこもる妖狐の恨みを封じ、ようやく毒気も少なくなったと書かれている。予備知識では確か、和尚が金槌(玄翁)で岩を打ち砕き破片が日本各地へ四散し、そのため各地に九尾の狐伝説が生まれる事となった、はずだったかな。大陸、つまり海を渡って飛んでいった破片もあって、それが向こうでまた伝説を生んだという話まであるくらいだから、玉藻稲荷と殺生石との間の伝承は多少のズレくらい構わないのだろう。

頬っ被りのきつねさん 那須湯泉神社と九尾稲荷木道を左手に逸れて橋を渡って数百メートル行った先に、那須湯泉神社と九尾稲荷がある。何だかこの雑記ではキツネや稲荷神社の事ばかり書いているような気もするが、烏ヶ森稲荷といいここといい、なぜ稲荷というのは脇とか隅っこのほうにあるんだろうか。それはともかく、この九尾稲荷神社には詳しい説明書きが見当たらなかった。造りもそう古くはないし、おそらくは九尾の名を冠したのみでごく普通の、五穀豊穣を祈るための社なのだろう。

那須温泉の発見にも謂われがある。七世紀頃の昔に、狩りで傷ついた白毛の鹿を狩人が追っていたところ、その鹿が温泉に浸かり傷を癒しているのを見つけた、というのが那須温泉の初まりだという。

鹿の像近くに足湯に浸かれるあずま小屋があったので入ってみた。結構熱い。足湯は二つの湯に分かれていて、僕の反対側の湯ではおばちゃん方が三人、同じように足を浸かりながら談笑していた。しばらくして湯から上がり帰り道へ戻っていったが、家に着くまで足はぽかぽかしていた。うむ、今度は体丸ごと湯に浸かりたい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です