2022年2月8日(火)

歯科へ。何度も訴えている奥歯の突き当たりのカリエスに気づいてもらえたのはよかったのだけれど、それまでの詰め物もすっかり剥ぎ取るような時間をかける治療となり、うへえ……という思いで削られていた。歯茎より上へ露出している部分の奥歯が、三分の二ほど削り取られたんじゃないかな、という舌触り。あんまり勢いよく削られたため、たんぱく質の焦げる臭いまでが口内に漂った。うちの創作世界の人々にすがりながら、はは、痛いねー、逃れようはないけれど、みたいに涙目になっていた。あの痛みをよく麻酔なしで耐えたと思う。かぶせ物ができるのは二週間後とのこと。『アイアン・スカイ』観た。月面ナチスが地球人からくすねたiPadで最終兵器を起動したりしていた。眠たい。

2022年2月6日(日)

旧市街やひとけのない場所を、カメラを持って散歩した。思いがけずイチョウがいくつも植えられた神社を見つけ、うれしくなって周囲の日陰になりそうな場所をうろうろと歩き回った。桜とイチョウがあるならアミガサタケを探す価値もありそうだ。そのシーズンはおもに桜が咲くころ。なので、ひとまずこの神社はGoogleマップのリストへ保存した。無目的に地域を探索する趣味のリッチさをしみじみと思う。心と体の安定は条件付きでなんとか取り戻すことができた。この趣味をずっと味わえるよう、あとは社会的な安定を早く手に入れようね。ことしも読み進めている『ムーミン谷の冬』に、「みんな、いろんななやみがあるんだなあ。あのジャムのことなんか、とりたてていうほどじゃないんだ。……」と心の中で考えるムーミントロールのせりふがあり、柔らかい毛布をかけてもらうようで、とても好きなせりふなのだった。特に教訓めくこともなくさらっと出てくるところ、誰も負い目を感じない自然体の言葉なところに、絶妙なバランスを感じる。

おとといの写真もすこし手直しした。二月の月はぼんやりしているはずだから、そのように。

2022年2月4日(金)

43mmは繊細だと聞いていたけれど、確かにそうかも。31mmのくっきりはっきりしたイラスト感に慣れていたから、こっちの線の細さにはいつごろ馴染むだろ。少し前に書いた、轢かれてまだ息があったから道の脇へ引っ張っていったたぬきが、きょう同じ道を通ったら、もう一度轢かれてぼろぼろになっていた。場所が場所でこの時間差だし、おそらく同じ個体なのではないかと思う。身体を思い通りに動かせず方向が分からないまま、また車道へ出てしまったのだろうか。僕自身は前回のような激情に駆られることはなく、なにがか分からないけれど、残酷だなと思って通り過ぎた。それは、傷つけられるということが、別の傷のありなしとは無関係に訪れうることについてかもしれない。車が避けて通る骸のそばで、からすが一羽、様子を覗っていた。自分は多少関わったせいで落ち込んでいるけれど、こうした生きものが持ち込まれる森林事務所や、広く環境の保全に関わる人々は、日常的にこうした状況に向き合っているんだろう。目を閉じたくなるのは祈りに近い。

2022年2月3日(木)

昨年末から息切れしていた例のチラシについて、とりあえず書こうかと思って書き出したところ、書けた。んー、最終的にはA4の両面印刷へ落とし込みたいのだけれど、初めに考えていたより文字を小さくする必要があるから、いくぶん読みにくくなるかもしれない。あとはほぼ画像編集やレイアウトの話で使うアプリがPhotoshopでやる気こない。あー。

2022年2月2日(水)

最近は夜の刺すような寒さが減ってきた。あすは節分。しもつかれを作るのもこのころだったと今年の初午を検索したら、来週木曜の10日だった。しもつかれは自分で作ると骨が折れるけれど、深みがあってわりにおいしい料理だと思う。来週あたり、扱っていそうな直売所を覗くつもり。

2022年1月31日(月)

きのうの気落ちを引きずってはいるものの、立ち直れそうだなーくらいのあんばい。なにか新しいことを求めたくなる気がした。当たり前のことであるけれど、人生をもし一本の伸びていく線に例えたら、いまこの瞬間は時間軸の最前線を進む、常に新しいものを眺めるなにかであるのだった。それから、もっか口笛を吹く周期へ入ったようで、音程にめりはりをつける工夫を見つけた。唇の横方向の動きを大きく取ること。音を出す際は舌の動きや唇の先の形に気を取られるけれど、横方向のそうした動きはわりと直接的に、音の動的さにつながる感触がある。

2022年1月30日(日)

交通量が多い道の真ん中に、まだ息のある轢かれたたぬきがいた。これではあんまりだと思って原付を止め、積んでいた軍手でたぬきをつかみ、道路脇の藪の前まで引っ張った。血だまりの中にいたし、ほんの少し移動することもままならない怪我に見えたから、遅かれ早かれ死ぬだろうと思った。検索結果に出てきた動物病院は日曜でどこも開いておらず、うちの猫がお世話になった病院も、掛けた電話はやはり繋がらない。通りすがりの方々に相談したところ「警察か保健所へ連絡する手もあるが、たぬきではまともに相手をしてもらえないだろうし、どちらもいずれ処分されるのでは」とのことだった。仕方がないから、そのたぬきがなんとか藪に身を潜めたのを見届けて、こちらも立ち去った。子猫くらいの大きさでひどい皮膚病に覆われたたぬきだった。続々と避けて通った車をとがめる筋ではないし、事故そのものは確率の問題でもあるけれど、はねた当人はおそらく知らんぷりをしたんだろう。僕だってなにかしてやれたわけでもないし。怒りと悲しみでぐったりしてしまう。しばらく誰とも喋りたくないな……。午前中はまだ訪れたことがなかった地元の湧水地二カ所を巡った。近場にこんな清らかな環境が保全されていたなんて、とほくほくするようなおいしい場所だった。腰を上げてよかった。最初に訪れた湧水地には先客の男性がいて、ここを定点観測していますというようなことを、挨拶のついでに教えていただいた。もう一方の湧水地には浅く入り組んだ水路も掘られており、これはまさか人の手で維持されている湿地帯かな、なんて考えたり。この地域はかつて水の利用に難があると言われた扇状地であるけれど、地下4~5mにはいい感じの流れが走っているかも知れないのだな。周囲も下草が刈られた環境で、冬のいまは日の光がまっすぐ差し込むけれど、春や夏には辺りの木々がほどよい木陰を作りそうだった。いつかまた来る機会があるはず。それから地元の城跡へ向かった。近くに秋冬のみ営業する地域の風物詩なたい焼き屋があり、そこのたい焼きを囓りながら市街を眺めると人心地がつくので、一冬に一度くらいはそれをやってる。たい焼き屋にはきょうも人の列があった。たぶん、なにより。高台のベンチに座ってもしゃもしゃと食みつつ、そういえばこの城跡でほとんど訪れたことのない場所があったなと思い出し、木々が生い茂る土塁の北側を回り込むように歩いた。つかみどころのない、けれど確かな懐かしさが湧いてくる、薄暗く陽の差さない遊歩道だった。ずっと昔にここへ来たきり、この歩道がどこへ延びているのか、どんなだったかも忘れていたのだと思う。もし長らく立ち入ることのなかった子供部屋へ入ったら、もし引き出しの底から古い手紙を引っ張り出したら、このときのように感じるかもしれない。嬉しさや悲しさのような明瞭さではなく静かに水が満ちるような思い、これはずっとここにあったのだなと目が細くなるような、記憶のなかに取り残されたままの場所をもう一度訪れた気分だった。そのまましばらく散策をして、冒頭のたぬきの件があってから帰着。自分の感情の激しさには中てられると容易にげっそりする一方で、なにかに深く思い入ることは替えの利かない自分の一面だ、とも思う。後者だけなら楽なのだけれどな……。そういえば、きょう訪れた湧水地の土手にたんぽぽの花をいくつか見つけた。今年初。ほかオオイヌノフグリやホトケノザが日当たりのよい場所にちらほらと咲いていた。

追記:
今回のような場合の連絡先を見つけた。いつか役に立つかもしれないからリンクを貼る。栃木県/ケガをした野生鳥獣の取扱いについて