2018年8月12日(日)

みかんを食す。付けっぱなしのラジオから高校野球のサイレンが鳴り響いてきた。なにか劇的な勝利をした試合チームがいるらしい。

きのこ探しをする場所を探しながら市内を流していて、僕は樹木についてなにも知らないのだということを実感した。なんだろう、広葉樹と針葉樹の雑な判別が出来るくらいで、もちろんそうした土地の実りについても不確か。樹皮で名前を判別できるように覚える。

2018年8月10日(金)

那珂川河畔公園の湿地は高地の半草原に似ていた。

夕方に訪れたらいさまは南下してなお大雨を降らせている様子。現在、しとしとと降る雨の向こうで、雷鳴が低く伝わってくる。

喪った猫サキのことを日に数度は思い出すのだけれど、日々の些事を追う毎に、穏和な記憶として呼び戻すことが出来つつあるように思う。一方で僕は僅かな物音や空いた空間に反応しがちで、その不在にまだ慣れそうにはない。

文字系創作は未だ手に付かずにおり、さび付いたハンドルに力を込めるような徒労と、ごくわずかずつ搾り取っている文章への親しみを、同時に感じる。大切なのは好きを手放さないこと、のはず。

そして今季初の梨は瑞々しかった。

2018年8月5日(日)

日没後、西空に音もなく紫電が瞬いているのを見た。今年の夕立は、発生自体はそれなりにあるのだろうけれど、僕の頭上を通過していくものに限っては数えるほどだ。夕立の移動経路が変わったのかも、なんて話を聞く。

福島県産の桃5kgが今夏に届く手はず。家庭用。桃ばかり食べて過ごす。

2018年8月4日(土)

道の駅へ。午前でも日が昇ったころになると人足はまばらだね。みな陽差しを避けているのだろう、早朝なら即売所も賑わっているかも知れない。

2018年8月1日(水)

そういえば昨日、祖父から「用水路に大量にいるモロコを投網で捕った」という話を聞いた。モロコというのは、少なくとも僕にとっては聞き慣れない魚だ。祖父は、琵琶湖産の稚鮎を那珂川へ放流する際、一緒に付いてきて繁殖したのだろう、と言っていた。釣り場の候補としてそのポイントを教えてもらった。「放流は生物相に影響を与えるから細心の注意を払うべき」という意見は近年見かけるもので、僕も同調する。ただ、個人的になにかするわけでもないから、近くを通りすがれば様子を覗いに行く程度か。

先の梅雨から今夏に掛けて、雨があまり降らないという話を聞く。夏きのこ、と言うか具体的にはチタケが出ないような話だ。山歩きの得意な土地っ子であったおばさんは疾うに亡くなっている。今さらその術を継承したくても永く失われてしまったし、聞く限りではほかに山を得意とする親類もいない。だから、僕がそういうことを望むなら、自力でやるしかないわけだ。ひとりで山菜採りができるくらいのスキルはあるよ……。